笑いの法則(発見者:M.パニョル、R.カイヨワ、G.バタイユ、J.サーバー他)

人は、 @その対象に対し優越感を感じたとき、 Aその対象に対し人間性を感じたとき、 B笑いを共有してくれる友がいるとき、 C日常性の中 にいきなり非日常的な感覚が持ち込まれたとき、に各々笑う。

[解釈] 定義し難い‘ユーモア’についての取り敢えずのまとめ。少なくともこの条件を満たさなければ、我々は笑 うことができない、という笑いの「必要条件」を掲げてみる。
 その@は「優越感」。バナナの皮で滑った人を見て思わず吹き出すのは、自分はそんな滑稽なことはしない、という優越感のなせる業である。 同時にその笑いは自分はそんな目に逢うまいとする警戒信号でもある。このことに言及しているのは、パニョル、サーバー等。
 そのAは、「人間性への共感」。動物園の猿を見て笑うのは、そこに我々と同じ人間の動き、を見るからである。この点についての言及は、カ イヨワ、河盛好蔵等。
 また笑いには、それをともに共有してくれる人が必要、というのが次のB。一人で失敗してもおかしくないが、そこに他人の目があれば、つ い照れ笑いをする、というのが我々の習性である。この点を詠んだ江戸川柳をひとつ――「屁をひっておかしくもない一人もの」 そぞろ哀 れを誘う名句(?)である。
 最後のCは「日常の中に突然不条理な非日常が出現したとき、つい笑ってしまう」ということ。その好例は、筒井康隆の傑作ショート・ ショート「笑うな」。偶然にタイムマシンンを発明してしまった友人たちを描いて秀逸である。「わ、わ、笑うなよ。あの、タ、タ、タイ ムマシンを発明した」「ワハハハハハ」「ワハハハハハ」という掛け合いの中に、唐突に非日常的機械を作ってしまった者たちの戸惑いと、そしてアナーキーな笑いがある。この点についての言及は、中村真一郎、バタイユ等。
 最後に、評者の偏愛するJ.サーバー(1894-1961)のイラストを掲げる。気弱な夫と現実的な妻の「闘争」を描いたお馴染みの一編。これぞ「ニューヨ ーカー」タッチ、そしてアメリカン・ユーモアの粋、である。




[注]
 アメリカでは上記
J.サーバー 、ロシアでは前掲イリフ&ペトロフ(そしてイギリスではP.G.ウッドハウスか)
等がその国を代表するユーモア作家だとすれば、我が国での国民的ユーモア作家は誰だろうか――この難しい問いに、喜劇研究の大家・小林信彦は「まずは夏目漱石、そしてその後の長いユーモア空白期を辛うじて埋めるのは佐々木邦である」
(「評伝」表紙)
と断ずる。

佐々木邦(1883-1964)は、我が国ユーモア文学の先駆者。慶応大学英文学教授。教養に裏打ちされた家庭的ユーモアで人気を博した。少年小説界でも活躍し『苦心の学友』は昭和初期の一大ヒット作。ただその微笑の蔭には辛い実人生があり、12歳で母が入水自殺未遂。また長女あやを産褥熱で、次女ふさを乳ガンで、次男英二を大戦で、長男仙一を心臓病で、各々亡くしている。そして終戦直後、40年近く連れ添った妻・小雪にも先立たれるなど、その一生は肉親達の死に暗く縁取られていた。それでもなお「死も亦人生の実務」として作品を発表し続けたところにの真骨頂があり、まさに筋金入りの“ユーモア作家”であった。

(「美人自叙伝」挿画)

そんなの作品中、編者が最も笑ったのは“商家の若奥様”が語り手の『美人自叙伝』である。例えば、車中でのこんなエピソード――「私は電車に乗って立っていることがございません。『奥様、さあ、何うぞ』と席を譲ってくださる方が 一歩毎ひとあしごとにございます。中ほどまで歩こうものなら、左右総立ちで、車掌さんが吃驚びっくり致します。
“絶世の美人”と自他共に許す女主人公の、無邪気なまでの自信満々ぶりが笑わせマス。


(Steve Martin)


別れの法則(発見者:S.マーティン)

愛とは、予め破られた約束なのだ。

[解釈] S.マーティン(1945〜)は、米コメディ界の登竜門「サタデー・ナイト・ライブ」出身。甘いマスクの下に隠さ れた暗い孤独が持ち味のカルト・コメディアン、である。上の言葉は、そんな彼の書いた脚本の一節。少年期の父との確執(不動産会社の重役の 父は、挫折した俳優だったと言う)、長年連れ添った妻との別れなど、その実人生は彼のタップ・ダンスほどには軽快ではない。




 本ダイジェストも終わりに近付いたので、ここで編者が心に留めた‘別れの言葉'を少々掲げてみたい。

  • さよならを言うのはわずかのあいだ死ぬことだ」(R,チャンドラー『長いお別れ』)
  • あなたは私の青春でした」(柴田翔『されど我らが日々』)
  • ……お友達になってくれる?」(黒井千次『春の道標』)
  • 恋人と別れるほんとうの苦しみとは自分がもう愛されないと知ることではなくて、相手がまだだれかに愛される可能性があると認めるこ とだ」(高橋昌男『饗宴』)
  • 君に取り返しのつかぬ事をしてしまったあの日から、僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃった」(小林秀雄の故・中原中也への弔辞)
 最後の言葉が殊に哀切に響くのは、小林が、中原から愛人・長谷川泰子を奪ったため。なお彼女は、小林の死の直後、秋山駿のインタビューで 「(自分を一番よくわかってくれたのは)中原です」('83.3.11)と答える。不可思議なる愛の逆説、である。

(70歳の長谷川泰子 1904-93)