(ベスター著作表紙)

殺人者の法則(発見者:アルフレッド・ベスター)

汝に天性の殺人者の素質有りと考ふる時は、自らの本能に多くを委ねるべし。

[解釈] A.ベスターのヒューゴー賞受賞作『分解された男』中の一節。全銀河系を支配するモナーク物産 社長のライク家に伝わる 家訓である。時はエスパーの徘徊する24世紀。犯行前にその意図を見透かされてしまうため、 犯罪が不可能なこの 時代、ライクは無謀にも競争相手のクレイ・ド・コートニーを殺害せんと企てる。では、エスパー達の心理の網の目の一例を。

      正直言ってだな、 カナペはいかが? ありがとう      
ゲイレンを  @キンズ君              メアリー。
                            
うん、こいつは
いっしょに  君がモナーク物産で         おいしい。
連れてきた。 働く日も、
               
 いいんだぜ。    そうだよ。

 この超感覚で交わされる会話の中を、我らがベン・ライクは、女友達ダフィ・ワイガンドに教わった【《もっと引っぱる》いわくテンソル/ 緊張、懸念、不和が来た】という理解不能なリフレイン(この創元文庫版の翻訳は傑作)によって突破する。このシーン、名作『分解された男』の最初 のクライマックスである。
 そして、この物騒な法則は‘殺人者’を別の語に置き換えても活用が可能。例えば‘事業家’と入れれば、「汝に天性の事業家の素質有 りと考ふる時は自らの本能に多くを委ねるべし」と穏便な法則にもなるのである。

(真珠の一房)

[注] A.ベスター(1913-1987)は、ユダヤ系中流家庭生まれのSF作家。コミックス、ラジオ、テレ ビの各メディアでも、各々一家をなした天才、或いは天才肌の野心家である。その前衛的技法(前出のエスパー達の会話や、最高傑作『虎 よ、虎よ!』の主人公・ガリー・フォイルが味わう真珠の一房の描写)、心理学テーマ(父親殺しや自己発見といった主題)等、尊敬する ジョイスにも似た多面性が特徴である。
 その華麗なる退廃趣味が最高に発揮された3大ヒロインをご紹介すると――

  • バーバラ・ド・コートニー(『分解された男』):一瞬電光のように閃く、野の花の美しさ。実はライクの‘失われた妹’である。
  • ナトマ・カーゾン(『コンピュータ・コネクション』):恐るべき謙譲と解き放たれた好色を併せ持つ永遠の妻。
  • オリヴィア・プレスタイン(『虎よ、虎よ!』):盲目でありながら電磁波を見ることができるという、恐るべき白子。その超能 力で感得する空襲場面の不吉な華麗さが圧倒的。彼女は叫ぶ、「交錯する色の織物。蜘蛛の巣。綴れ織りなのよ。こよなく美しい屍衣みた い!」そして彼女は盲目であるが故に全てを憎む、誇り高い復讐者でもある。まさに、ベスター全作品中最大のヒロイン。
  • グレッチェン・ナン(『ゴーレム100』):べスターの描く最後のヒロイン。20代後半で、うっとりするようなブラック・ビューティーだが、実は高名な精神工学者でもある。こちらも生まれつきの盲目だが、超感覚的知覚により他人の目を通して外界を見ることができる。22世紀に生きるツチ族の誇り高き王女。

( 1882-1941 )

「思想=アルファベット」の法則(発見者:ヴァージニア・ウルフ 1941年近くの川に入水自殺 享年59歳)

思想はアルファベットの階梯で現される。

[解釈] イギリス20世紀文学の代表V.ウルフが、中では取っ付き易い方の長編『燈台へ』で語った思想段 階説。彼女の父親をモデルにしていると言われるラムジイ氏が、暮れなずむ庭で思索を巡らす場面での描写である。

 「仮に思想が(中略)26文字を並べたアルファベットだとすると、彼の優れた精神は(中略)まずQのところ迄は行っている

 で、その段階は当然、のところまであって、それは一時代に一人の人間が到達するかどうか、といった高水準を意味する。ラムジイ氏 は、散策しながら「さてRは…」とつぶやく。しかしその時‘とかげのまぶたのような皮膜’が彼の思考を覆ってしまう。はついに彼の ものとはならなかったのである。この感じ、特に‘とかげの皮膜’というあたりは、より低い階梯であるにせよ我々にも覚えがあるような 気がして、身につまされるものがある。


(B.ラタネ 1937-)

「社会的手抜き」の法則 (発見者:B.ラタネ&J.ダーレイ)

集団で作業すると、個人で作業する時より努力量が減る。

[解釈] 心理学史上よく取り上げられる事件に、「キティ・ジェノヴィーズ事件」がある。1960年代のある日午前3時のニューヨークで、キティと名乗る若い女性が30分にわたりナイフで刺されて殺されたが、その殺害を38人(!)もの目撃者がいながら誰一人止めようとしなかった、という事件である。ニューヨーク大学のラタネダーレイは、こうしたことが起きる理由を(逆説的に)「人が大勢いるからこそ誰も何もしない」と考え、それを拍手課題や発声課題(被験者に大きな拍手や大声を出すよう指示したところ、人数が増えるほど1人当たりの音量が減少する)といった実験で証明してみせた。すなわち「他者の存在」が“事件の緊急性”に@社会的影響を与え(他者が何もしないとそれに影響される)、A責任感の拡散を引き起こす(自分がしなくても誰かが手を貸すと考える)のである。 さらに言えば、殺人事件といった緊急事態に遭遇することは稀なので、自ら進んで行動せずに他人の反応・行動を参考にせざるを得ない、とも考えられる。「人々は愚かなことをするより死んだ方がまし」(喜劇作者兼ハーバード大教授T.レーラー)なのである。
[注] 一方で、集団の成果が個人にとって意味があり、他人が信用できないときには、個人は、反って努力量を増大させるこもあり「社会的補償」)、個人が集団の中でどのように行動するかは予断を許さない(というか、まぁ、ハッキリしないんですナ)。なおこれらの研究ははいずれも、「社会的促進理論(他者の存在が個人の課題遂行に影響する、という考え)の一部と考えられる。


(下の「注」を参照)

「集団極化」の法則 (発見者:J.ストーナー、マッコーレイ、テッサー&レオン)

個人の意見や判断は、集団経験を経ると、より極端になる。

[解釈] 個人の意見は集団討議や情報交換により、、より冒険的な方向に意見が変化する(これを「リスキー・シフト」という)。その理由としては、@集団で物事が決まると責任が曖昧になる、A集団の意見を左右するリーダーは冒険的な性向がある、等が考えられる。ただ反対に討議を重ねた結果、安全な方へ態度が変化することもある(マッコーレイの「競馬場実験」。これを「コーシャス・シフトという)ので、実際は両者をまとめる説明が求められるが、そこはまだ明確な結論が出ていないそうナ。

[注] 
というのも無責任なので、一応の見通しを述べれば“時間をかけると考えが明確になり、極端になる”といったところだろうか。これは、テッサーレオンの男女学生に対する「フットボールとファッションの嗜好性実験」(各々の好む画面を数回見せて好き嫌いの極化を調べる実験 1977)で、ある程度確かめられている。人は、最初の態度が形成され、その後同じ対象について思考を重ねると、思考内容の一貫性を高めたいために、その態度を極化するのである。すなわち「第1感 『最初の2秒』の『なんとなく』が正しい」


シャクター(1922-97)

「情動2要因理論」の法則(発見者:シャクター&シンガー、ダッド&アラン、ストームズ&ニスペット、ディーンストピア等)

情動を生じるには、@生理的な喚起とAその喚起を起こした理由についての情動的解釈(ラベリング)、という2つの要因が必要である。

[解釈] 「情動(emotion)」とは聞き慣れない言葉だが、要するに、怒り、恐怖、喜びなど、それを引き起こした原因が明確で、一時的だがかなり強い感情、を指す(これに対し、漠然とした持続的感情が「気分」である)。アメリカの心理学者S.シャクター(コロンビア大)とJ.シンガー(ペンシルベニア州立大)は、この情動の認知が、生理的な喚起(言い換えれば、興奮)だけでは特定できず、その覚喚起の情動的解釈(ラベリング)によって初めて成立する、と考えた。極論すれば“生理的な興奮”と“その解釈:”は実は関係がない、と主張したのである。
  そして、この理論を実証する興味深い実験が次々と行われたが、その代表的な例を以下に掲げてみる。
@「つり橋」実験(ダッド&アロン) 頑丈な橋とグラグラするつり橋の上とで、被験者の男性に美女が近づいたときの反応を調査。その結果、つり橋の上の男性の方が、女性に対しよりいっそう性的反応を示した。被験者は、自己の情動を「恋愛感情」とラベリングしやすい状況におかれているが、そのとき「つり橋の上」という“恐怖条件”におかれていた方が、生理的喚起が強く、そのため「恋愛感情」という情動を強く認知(誤認)した、と解釈される。お化け屋敷に恋人と行くと愛が高まる、とか、親の妨害が不快な喚起をもたらし二人の恋愛感情を高める(「ロミオとジュリエット効果」)というのも、その「誤認」の一例である。
A「逆偽薬効果」実験(ストームズ&ニスベッド) 不眠症の被験者に興奮する偽薬を与え、一方の被験者には「一時的に興奮するという副作用がある」と本当のことを言い、もう一方の被験者には「リラックスさせる効果がある」と嘘を言う。その結果、「副作用がある」と言われた被験者は、その興奮を薬のせいと思い気持ちが楽になって安眠できるが、「リラックスさせる」と言われた被験者は、「薬を飲んだのにこんな感じなのだかから、ホントはもっと気持ちが昂ぶっているはず」としていっそう不眠となる、という実験である。
 そしてこの現象は、高レベルの不快な喚起に対し、可能であればそれに非情動的解釈を与えてその喚起レベルを低める、ということを示してもいる。カンニングをしても薬のせいでドキドキする、と考えると罪悪感が低くなる、という実験結果がその例であり(ディーンストピア
「カンニングの実験」)、夜中に不気味な音に怯えていても、隣の猫が犯人だとわかればホッとする、というのも同じ心の動きである。
(現在の「P.B.」誌)

[注] 上記理論によれば、「生理的喚起」と「情動認知」は関係がない訳だが、その証明に成功した興味深い例が、S.ヴァリンズ「ヌード写真の実験」である。これは、男子大学生たちに「プレイボーイ」誌から取った10枚のセミ・ヌード写真を見せ、その間、偽の心音を聞かせると、心音を故意に高めた時のセミ・ヌード写真により性的魅力を感じた、というもの。この実験は、シャクターたちの仮説を証明しただけでなく、さらに進んで“実際の生理的喚起が起こっていなくても、「自分は今興奮している」と誤認すれば、その認知に対して情動のラベリングを行い、情動認知が成立する”ということを示してもいる。


(究極のセールス本!)

「心理操作」の法則 (発見者:D.リーバーマン)

@「この人ならわかってくれる」と思わせたら勝ち。
A人は一貫性を求めようとする。

[解釈] 対人心理学を応用したセールス・マニュアル本。 豊富な心理学的実例を配し、その説得力は類書を圧する。著者リーバーマンは、心理学者兼コンサルタントで、ビジネスマンのメンタルヘルス・ケアや全米トップ企業のコンサルタントとしても活躍しているという。
@よく正反対の人を好きになる、というが、それは誤り。実際は、自分と似たタイプの人や同じようなことに関心を持っている人の方を好きになる(
「類似性効果」)。同種の法則に「戦友の原理」があり、共通の強烈な体験(戦場、シゴキ、病気体験など)を味わったもの同士は、直ぐに意気投合する傾向がある。これは、誰もが“自分を理解してもらいたい”と願っており、共通の性向、共通の体験を持つ相手に対し「この人ならきっと自分をわかってくれる」と思えるからである。
この法則の応用に
「心理的な懸け橋」の作り方がある。人は、目の前で自分と同じことをする相手に対し、無意識のうちに好意を抱く傾向がある。具体的には、姿勢や動作を合わせたり(相手がポケットに手を入れたら自分も入れる等)、話のペースを合わせる(相手がユックリ話すならこちらもそうする等)ことにより、相手に好かれるよう仕向けることができる。
A人は、小さなことを頼まれそれを承諾すると、さらに大きなお願い事も受け入れてしまう(
「心の慣性の法則」)。これをセールスに応用したのが「フット・イン・ザ・ドア・テクニック(段階的要請法)」といい、「安全運転」の看板を家の前に立たせてもらう、という実験結果がその好例である(フリードマンフレイザーの実験)。「安全運転」の大きな看板を立てさせてもらうよう最初から頼んでも駄目だが、小さなステッカーを窓に貼ってもらうことからはじめ、その数週間後に大きな看板を立てさせてもらえるか尋ねると、圧倒的多数の人がOKしてくれた、という。人は、小さな一歩を踏み出すと(「私は安全運転について関心がある」)、一貫性を持たせようとして、さらに大きな一歩を踏み出す(「安全運転の大きな看板を出してもよい」)のである(この法則についての、中国の箴言も覚えておきたい―「小さいことから始めて、そこから築き上げよ」 )。なお、この法則を有効にするには、まず相手に“行動”を起こさせることが肝心である。“行動”こそ、“ただ考えている”よりも努力を必要とする分だけ、その人がどんな人間なのかを教えてくれる。「自分の行動が自分の信念や価値や態度についての第一の情報源」なのである(R.B.チャルディーニ影響力の武器』←これも名著)。
この考えの応用として、相手に「望ましい自己イメージ」を植えつけることにより、自分にとって望ましい行動を引き出すことも可能となる(
「期待の法則」)。人は、「自己イメージ」(自ら最も思い出しやすいイメージ、を言う)と「行動」に整合性を求める(「一貫性」)ので、自己イメージが変われば行動も変化するのである。これを利用して、「あなたの〇〇なところが素晴らしい」といえば、相手は自然に、〇〇な行動をとることになるだろう(「内的整合性の法則」)。
なお、このAの法則は、後掲「『認知的不協和』の法則」「認知的一貫性理論」にも通ずるところがある。人は、自分の行動を
「正当化」しようとして、自分自身に対しても他人に対しても理性的に見えるよう努め、以って考え方や態度が一貫していることを希求するのである。
「一貫性」
は、「論理性、合理性、安定性、そして誠実さの核心をなすもの」とみなされ、また「それ以上、問題について真剣に考えなくてすむ」という魅力(!)もあることから、容易に人はその「一貫性」という壁の中に閉じこもるのである(
R.B.チャルディーニ 同書)。

(他の著作)

[注] 「本書」には他にも興味深い法則が多数取り上げられている。以下、代表的な法則をいくつか。
「絶好調のときの状態を心に刻みつけよ」…催眠術における「条件付け」の方法。ベストの状況のときに、特定の言葉、しぐさを脳に刻み付けておく。さすればいざというときその言葉、しぐさを思い出せば、脳がベストの状態を思い出すであろう。
・「人は自由を制限されることを嫌う」…人は「手に入らない」、「できない」といわれて(自由を制限されている、と感じると)、欲望を掻き立てられる。なお、この(「自由をおびやかされている」という)心理的圧力に対する反撥を、
「心理的リアクタンス」という。押し付けがましいセールスが失敗するのはこのためである。なお、直前の頼みごとが思いのほかプレッシャーとなることが知られているが、これも「自由の束縛」に通ずるためか(逆に言えば「頼みごとはずっと先のことにせよ」ということ)。
・「傍観者効果」…傍観者が多いほど、困っている人を助ける割合が減る。従って、ホントに頼みごとをするときは、「あなたしかいない」と告げることが肝要。
・「人には他人と同じことをしたい心理がある」…他人が「向社会的行動(献血、募金等)」をとったことを知ると、人は無意識のうちに同じ「愛他的行動」をとる。
・「6はマジックナンバー」…依頼は6回まで粘れ。研究結果によると、6回目に応ずる人が多いそうな(どんな「研究結果」か知りたい!)。
・「社会的証明の法則」…第三者の応援は、予想以上に効果的である。利害関係が無い、ということは、客観的な判断のように見えるから(そして、利害関係が無いから、その人の賛同も取りやすい)。
・「謝るときは本気で謝り、言い訳をするな」…謝るときは、全責任を自分が負って言い訳をしない。そうすれば、話はそこで完結して、相手の自尊心を回復することができる。
・「対比の法則」…状況をもっと悪い場合と比べて、現状をプラス思考で見る。さすれば、ショックや痛みも軽減できる。
・「会話中断のテクニック」…相手に一方的に攻撃されているとき、次のような言葉を言えば、相手を軽いトランス状態におくことができる。
言っていることは分かるけど、それでは本当のことにならないな
あなたの質問は、そうなるだろうと知っていたことなんだよね?」等。
いずれも、「AはAである」と言っておきながら。「AはじつはBである」「AはAなのか?」と言い替えているので、相手は思考停止に陥るのである。
・「連合の法則」…いい知らせを運んでくる人やいい気分のときに声をかける人は、歓迎される、ということ。相手にとって心地よい刺激と自分を関連付けることは、相手に好かれる効果的一法である。
・「好意の互恵(返報)性の法則」…人は、自分を好きになってくれる人を好きになる。好かれていないときも悲観することは無い、徐々に好きになってもらえたら、初めから好かれていたよりも、もっと好きになってくれる。なお、好きな相手に対し「無関心」を装う、という恋愛テクニックが知られているが、それは心理学的には逆効果。情熱的感情の背後には「希望」が無くてはならない。
・「希少価値の法則」…で、好きになってもらったら、前の法則と矛盾するようだが、「都合のいい人」になってはいけない。「好かれること」はあらゆる人間関係の基礎であり頻繁に接触すべきだが、いざ人間関係が深まってからは、自分の「希少価値」を訴えなくてはならないのである。
「感情の転移現象」…身体からアドレナリンが分泌されると、目の前の相手に感情的に惹きつけられる。すなわち「感情の転移」が起こり、その場に居合わせた人に対しドキドキすることになる、ホラー映画や絶叫マシーンがデートにお勧めな理由もそこにある。
・「〜ので」の効果は絶大…心理学者
ランガーの実験によれば、コピーの列に割り込んで、単に「使わせてください」と言ってもOKしてくれないが、「コピーをとらなければいけないので使わせてください」と言うと、ほとんど全員が了解したという。「〜ので」と言われると、人は条件反射的に「正当な理由がある」と受け止めるのである。
・怒る相手には「私は〜」を使わない…要は、怒っている相手の問題まで抱え込まない、ということ。 「私は〜」と言ったとたん、相手との間につながりができて心理的に不利に
なるが、「あなたは〜」という言葉を使えば、ボールは未だ相手側にある。


(フランクル教授の肖像)

「人生の意味」の法則 (発見者:V.E.フランクル 1905-1997)

人生の意味は、「外部」にある。

[解釈] アウシュヴィッツ強制収容所の体験を綴った『夜と霧』で著名な心理学者フランクルの、悲惨な体験の果てに掴んだ人生の真理。いささか解りにくいが、人生の意味は自分だけで完結するのではなく、 常に社会・他者といった「外部」との関係の中から生まれる、という主張である。仲間と共に収容所で死を待ったフランクルは、人生の意味はそうした仲間との共生の中にしか見出せない、と信じたのである。

[注] 死を待つだけの患者に人生の意味はあるのか、 という重い問いかけに対しても、フランクルは「その患者の死を前にした態度により、周囲の人に勇気を与えられれば、 その生に大きな意味が有る」と説く。まさに『それでも人生にイエスと言う』の著者に相応しい信念であり、後掲 「養老猛司の『2元論』の法則」で取り上げられるる「共同体の尊重」に通ずる主張でもある。


(映画「死ぬまでにしたい10のこと」)

「死ぬまでにしたいこと」のリスト (発見者:N.キンケイド)

言いたかったら、本当のことを言う。

[解釈] 当項目は厳密には「法則」ではないが、世に出回る「成功本」の教え――“数日後に死ぬと考えよ。さすればあなたの本当にやりたいことがわかる!”――の応用編とお考えいただきたい。
ここで取り上げるのは、イザベル・ヘコット
監督の映画『死ぬまでにしたい10のこと』。 アメリカの女流作家ナンシー・キンケイドの短編を映画化して、50万人が涙したといわれる大ヒット作である。
余命わずかと告げられた23歳の人妻メリンダは、
“死ぬまでにしたい10のこと”をリスト・アップする。遥か彼方にあった筈の“死”が眼前に迫った時、失業中の夫と3人の幼子をかかえて煩悶しながら、彼女は徐々にその事実を受け入れていく(メリンダを演じたサラ・ポーリーの自然体の演技も好評)。ではそのリストとは―、
1.もう一度洗礼を受ける
2.次にシアーズに写真家が来るときに、自分の写真を撮ってもらう(みんなに焼き増ししたものをあげる)
3.最低でも三人、ほかの人と愛し合う(どんなものか見てみるだけ)
4.ヴァージル(←メリンダの夫)に彼女を見つける
5.子供たちのために、みんなが21歳になる分までの誕生日のメッセージを、テープに録音する
6.毎日、子供たちにアイ・ラブ・ユーを言う
7.好きなだけ煙草を吸って、お酒を飲む
8.好きなだけ乱暴な言葉でののしる
9.言いたかったら、本当のことを言う
10.十ポンドやせて、もっといいヘアスタイルにする

ほかの人と愛し合う」といったドキッとさせる願いを入れるあたりが、若妻の心情を浮かび上がらせて巧み。 ただ、編者が感心したのは、9の「本当のことを言う」という項目。 死に行く者には、世間的な虚飾などどうでもよく、ただ真実のみが必要ということ。 確か谷川俊太郎の詩に「ほんとうのことを言おうか」というフレーズがあったが、普段は直視しない
“本当のこと”こそ、死に行く人たちが最後に求めるものなのであろう(か?)。

(右下が著者近影)
[注] このテの「リスト」には様々なアプローチがあり、“エグザイルス・ギャング” ことロバート・ハリス(1948〜)の「人生100のリスト」は中でも出色のセレクトであった。以下に、粋で不良で放浪作家の「人生のリスト」の一部を掲げる。
02 1000冊の本を読む
11 性の奴隷になる
14 親父より有名になる
(←氏の“親父”は、年配の人には懐かしい「百万人の英語」のタレント英語教師J.B.ハリスでありマス)
18 シンガポールのラッフルズホテルに泊まってジントニックを飲みながらサマセット・モームの小説を読む
37 ブックショップを開く
45 親友を5人作る
64 刑務所に入る
88 アトラス山脈を車で越える
99 離婚する
なお、99の“願望”は現実のものとなったが、氏はそのことを悔やみ、「どんなひねくれ者でも、ネガティブな意味合いを持った夢や願望だけは書くべきではない」と痛切に告白している。


(最新CD「男と女」)

「持続」の法則 (発見者:稲垣潤一)

ひとつのことを続けるには、小さな自惚れが必要だ。

[解釈] 「ドラマチックレイン」「クリスマスキャロルの頃には」などのヒット曲で知られる歌手(兼ドラマー)稲垣潤一がTV番組の鼎談で語った言葉。番組はTV東京系音楽番組「ミューズの晩餐」、お相手は寺脇康文川井郁子である(’09.1.7放送)。
稲垣さんは比較的遅咲きでした(デビューは28歳)が、それまでに辞めようと思ったことはなかったんですか?」との問いに、稲垣は
続けられたのは、小さな自惚れがあったから(これは、あまり大きくてもいけませんが)」と答える。そして「自分を冷静に見る眼や耳は必要でしょうが、でも自分の歌は世界一、といった妙な自信がありました」と付け加えている。
これに対し寺脇も「僕も主役デビューは29歳で晩かった」と言い、「後輩には才能に限界を感じるまでは辞めるな、と言っています」と同調する。そこへ川井も「私も個人としてデビューしたのは、30過ぎ」と意外な告白をし、かくて華麗なる“遅咲きトリオ”が誕生する。その3人が異口同音に「デビューは晩かったが、それまでに色々蓄えていたものが後に生きた」と語っていたのも印象的だった。

(上田泰己1975-)
[注] まったく別ジャンルなのだが、「体内時計」研究の若き天才上田泰己(ひろき)氏(東大医卒、33歳独身)が、TBS系TV「情熱大陸」で、研究を続けるべきかを悩む大学院生にかけた言葉が殆ど同じニュアンスだった('09.3.1放送)。すなわち、
――「無根拠な自信が大事」。
上田氏の明るさもまた、多分にこの信念から来ていると思われる。
因みに、比較の仕様もないが、編者も時々家人に「その謂れのない自信はどこからくるの?」と言われます、ハイ。


(イリフとペトロフ)

「食人種エーロチカ」の法則 (発見者:イリフ&ペトロフ)

いっさいの用を弁ずるに、単語はわずか30で足りる。

[解釈] 「ドンキホーテ」や「外套」とならぶ“世界ユーモア風刺文学の最高傑作”(江川卓)と称されるのが、イリフ&ペトロフ「十二の椅子」である。上の「法則」は、その作品半ばに登場するチャーミングな技師の妻エーロチカ信念(?)。作者曰く――「シェクスピアの語彙の数は、専門研究家の計算によると、一万二千に達する。一方、食人種ムンボ・ユンボ族の語彙の数は、全部で三百である。ところで、シチューキン夫人エーロチカ(エレーナの愛称)は、わずか三十の単語を自在にあやつり、それでいっさいの用を弁じていた。 これが“食人種エーロチカ”の由来である。で、そこで選ばれた主な語句は、以下の通り。
ひどいわ ホー・ホー!(状況により、皮肉、驚愕、狂喜、憎悪、喜び、軽蔑、満足感などを表現する) いかす しけた(何にでも冠される形容詞。たとえば、『しけた天気』、『しけた話』、『しけた猫』など) ゆーうつ! ぞっとしない(たとえば、顔見知りと出合ったときなど、『ぞっとしなかったわ』) 7好青年(年齢や社会的地位のいかんにかかわりなく、すべての顔見知りの男性についていわれる) あたしに指図はよして 赤んぼみたいに(『赤んぼみたいに、殺してやるわ』―カルタ遊びのさい。『赤んぼみたいに、切りとっちゃって』―おそらくは、仮縫いのさいの会話) 10すてきね! 11太っててきれい(生物、無生物を通じて用いられる形容詞) 12馬車で行きましょう(夫にたいするとき) 13タクシーで行きましょう(知りあいの男性にたいするとき) 14お背中が真っ白よ(冗談) 15おやまあ! 16ウーリャ(名前の後尾につけて愛情を表現する。ミーシャがミシューリャ、ジーナがジヌーリャのごとし) 17オホッ!(皮肉、驚愕、狂喜、憎悪、喜び、軽蔑、満足感)
彼女が、厳選されたこれらの言葉をどのように使うかを、夫(技師シチューキン)との諍いのシーンで見てみると――

(勝手に2脚の椅子を買った妻を怒って、シチューキンが言う)「やぁ、エーロチカ、これはどうしたんだね?この椅子は?」
「ホー・ホー!」「いや、ほんとにどうしたのさ?」「すてきね!」「うん、いい椅子だな」「いかすわ!」「だれかにもらったのかい」「オホッ!」
(ついに、黙って買い物をする妻に我慢ができなくなった夫は宣言する)「離婚しよう」
「おやまぁ!」「僕らは性格があわない。ぼくは…」「好青年よ、太っててきれい」「何回いったと思うんだ、ぼくを好青年っていうのはやめてくれって!」「ご冗談!」「そのばかげた言い方をやめろ!」「あたしに指図はよして!」

まさに、人生の一大事(なにせ、離婚を迫られているのである)に直面しても、言葉はわずかでこと足りるのであった。
(「黄金の仔牛」挿画)

[注] 作者のうち、イリヤ・イリフはジャーナリスト出身、エヴゲニイ・ペトロフは(「孤帆は白む」で有名な)作家カターエフの弟で詩人。共にユダヤ系で、新聞社の編集部仲間だったという。合作「十二の椅子」(1928)は、ソビエト国内のみならず欧米各国 で翻訳されるほど好評。その3年後に発表の2作目「黄金の仔牛」(1931)も、前作に優るとも劣らぬ風刺文学の傑作であった。そして、この2作共通の主人公が詐欺師オスタップ・ベンデル。この“偉大なる策士”は、困難に遭っても常に前向きで、その口癖―「会議は続行中だ!」―は読者を妙に元気づけてくれマス。


(I.アシモフ)

「心理歴史学」の法則 (発見者:I.アシモフ1920-1992)

充分に大きな人間集団の行動は統計的に予想できる。

[解釈] 「心理歴史学(サイコ・ヒストリー)は、SF作家アシモフ(1920−92)がその未来史シリーズ「ファウンデーション」に登場させた夢の学問。作中の説明によれば――「…それは、社会・経済的な刺激に対する人間集団の諸反応を取り扱う数学の一分野であり…これら諸定理全てにおいて統計的処理が適正であるためには、取り扱う人間集団が充分な大きさを持つ、という暗黙裡の仮定事実があった。」(<エンサイクロピーディア・ギャラクティカ>←未来の百科辞典)  簡単に言ってしまえば統計学の初歩「大数の法則」の援用なのだが、そこはそれ、「ロボット工学3原則」を発明し生化学者としても一家をなした巨匠アシモフが(そして、作品中では天才社会学者ハリ・セルダンが)提唱しているため、いかにも尤もらしい響きを帯びるのである。この学問体系に支えられ<ファウンデーション>の中心トランターは銀河2500万の惑星を支配するが、その繁栄にも終焉が訪れる。すなわち<突然変異体>ミュールの登場、である。他人の感情を意のままに操るミュータントの出現は「心理歴史学」では予測できず(「大数の法則」では個々の突然変異を捕捉できない)、ために<フアウンデーション>は未曾有の危機に直面するのである。
そして、この危機を救うのが<第2ファウンデーション>の存在。セルダンによって「<第一ファンデーション>と銀河系の他の端にある」と予言された「復興の種子」探しに敗れた時、ミュールはその生涯を終えるのである。ミュールが銀河の果てまで探して見つからなかった<第2ファウンデーション>は、では何処にあったのか?
<第一ファウンデーション>は銀河の外縁星域にあり、そこでは文明の影響はもっとも少なく、富と文化はないも同然であった。では<銀河系>の社会的な反対の端は何処か? もちろん、文明の影響がもっとも大きく、富と文化がもっとも強固に存在する場所だ。すなわち、セルダン時代の首都、トランターだ!」(←危機時のリーダー<第一発言者>の謎解き)という次第。つまり、セルダンが数学者でなく社会学者であったことを思い出せば、彼にとっての「相反する両端」とは、地理的に相反する両端ではなく、社会的に(富、文化、文明といった面で)反対の場所、を意味していたのである。いかにも、ミステリ作家(!)アシモフらしい“ミスディレクション”というべきか。

(イラスト・さべあのま)
[注] SFと「成功法則」の付き合わせが良いことは 、後掲「フィネイグルの法則」での、 ハインラインヴォクト の例を参照のこと。なお、編者はかつて「奇想天外」というSF誌で、そのあたりを論じようとした (名づけて「SFで成功を」)が、準備不足でアシモフ、ヴォクトを取り上げたところで中絶した経緯がある。左はその連載時のさべあのま氏のイラスト。無理にお願いして描いてもらった(氏は当時、編者のエッセイを「よくわからない」と仰っていたそうな)が、唯一の収穫だったような気もする。


(翻訳書表紙)

「数字の教える」人生法則(発見者:G.シャフナー)

@個人的感情を交えず、数学的確率・統計から導き出される事実を直視せよ。
A簡単な数学的考え方で現実を見極めよ。
B「個」と「全体」の2つの視点から物事を見よ。

[解釈] 発見者は、コンピューター会社3社のCEOを兼ねるベテランのビジネスマン。簡単な数字を駆使した 人生法則はなかなかの説得力で、その著書『人生について数字が教えてくれること』は、人生論の隠れた名著と言って良い。

 @まずは確率的人生観から:著者は、人生において‘頂点を極めなければ無意味だ’と言う考え方を捨てることが成功の秘訣、と言う。 そしてギャンブルで5割以上勝ち続ける確率は、胴元がいる限り有り得ないが、一回でも勝ち越した時にストップすれば、勝ち越しの可能性は 7割も有る、と証明する。即ち、現実的になって‘ホドホド’の結果で満足すれば、成功の可能性は高い、と説くのである(なお、ギャンブルはお 金のかかる娯楽で、お金が戻れば儲けもの、と考えればギャンブルにのめり込むこともない、という指摘も貴重であった)。
 次に自然界に目を転じ‘自然は常に無限の出来事を用意している’が故に、「物事はうまくいかなくて当たり前」と達観する。何故なら、自 分にとって都合の良い状態(例えば、芝刈機がうまく動く、ゴルフで好成績を残す、など)は一つだけだが、起こり得ることは無限に有り、従っ て不都合なことも無限に有るから、である(これを称して『芝刈機の法則』あるいは『ゴルフの第一法則』と呼ぶ)。またこの法則は、人は一 日に数え切れない感覚的経験(一日に約12万回!)をしているが故に、「思いがけない偶然が実はありふれたもの」であることにも気付かせてく れる。

 もうひとつは統計的視点の活用:例えば、学歴の差による将来の年収格差を考えると、「この世で一番お金になる職業は学生である」という 統計的事実が浮かび上がる。かくて、中退せずに学業に励め、という平凡なアドバイスが説得力を持つことになる。あるいは、所謂[80対20 の法則]が、統計的には[47対30の法則]に修正される、という発見。米プロ野球・バスケット・ホッケーの各1チームについて、スター選手と 普通の選手の出場機会を均等にすると、その貢献度は‘47対30’に収斂する、と言う。すなわち、3割の要素が全体の約5割の成果を稼ぎ出 す、という穏便な法則になるのである。(後掲「80対20の法則」参照)
(ペット豆柴「かぶと」)
 そして著者は、数年間の死亡統計を分析することにより“天寿を全うする方法”も伝授してくれる。即ち、@女性のように生きる  A水分ビ タミン・ミネラル・繊維の多いバランスのとれた食事を採る  B規則的に運動をする  C毎年健康診断を受ける  Dペットを飼う(可愛い ペットは血圧を下げ幸福感を与える)、の5則である。これに“高齢者のように生きる”、“殺されないように気を付ける”、“飲酒運手をしない (例えば不慮の死の原因の12%がこれ)”という心構えを付け加えれば、不慮の死にも遭わず天寿を全うすることができるのである。

 A簡単な数学的考え方とは、例えば「正方形の論理」を指す。この‘周囲の長さが同じ四角形で最大の面積となるのは正方形である’ という定理に従えば、労働者は、インフレ率以上の賃上げを獲ち取らねばならず(貨幣価値が5%下落した場合、賃金が5%上がっても、実際は0.95 ×1.05=0.9975で、もとの購買力よりも減少)、貯蓄は、短期間のハイリスク・ハイリターン型でなく若い時からの安定運用が一番(3年間の運用が、 30%、△30%、30%のリスク運用と各年7%の安定運用では、後者の運用果実の方が大)、となる。
 またこの‘簡単な数学的考え方’は、物事の選択に当たっても充分に有効。まずは選択肢の各チェック項目毎の得点を単純合計して比較し、次に各チ ェック項目をウエイト付けした合計値で再確認すれば、判断は、殆んど過たない(後掲「ラプラスの法則」参照)。  そしてこのウエィト付けは、仕事の順番を決めるのにも援用でき、(時間は有限であるが故に)価値の高い順に仕事をする者が出世する、 という法則も導き出されるのである。

 B「個」と「全体」の視点とは、個人と組織の二つの観点から物事を捉えよう、というもの。この見方によれば、‘労働者は、会社に給料 以外の費用を出させている以上、その費用を上回る収入を稼ぎ出さねばならない’(「投資収益率」の考え方)し、ずば抜けた働きの社員が一人 いる組織より平均的で協調性の有る社員のいる組織の方が生産性が高いことが解る。人は組織の一員である以上、常に組織がどう動いている かを頭の片隅に置いておかねばならないのである。


スタージョンの法則(発見者:T.スタージョン1918-1985)

何事も95%は屑である。

[解釈] SF作家スタージョンが、SF作品はクダラナイものが多いと言われたときに、それに抗して言った言葉。 或いは文学の新興ジャンルであるSFに、特にそれが当てはまる、と思って言ったのかも知れぬ。  彼はまた、「最近の有望新人はJ.ティプトリーJr.を除くと皆女性ばかりだ」という名言(尤も、後でテイプトリーJr.も女性だったことが判り、 遂に全員女性になるのであるが)も残している。骨太な幻想小説家スタージョンに、こうした意外なキャッチフレーズ作りの才能があったのが 面白い。

[注] 現代日本の百科全書派・立花隆は、最近のインターネットの流行を評して「90%以上は 屑だ」と言ったが、これも当法則のヴァリエーションのひとつと言えよう。しかし、だから駄目だ、と言っているのではなく、残り数%の可能性 を見よと、この(SFと同じような)新興勢力を励ましているのである。
 なお、スタージョンの秀作群から一つ選ぶとすれば、やはり『人間以上』。マイナスの属性のある者たちばかりが集まって‘人間以上’に進 化する、と言うアイディアもさることながら、「薄明の中に棲む」白痴の描写が圧倒的で、大袈裟に言えば、SFフリークスたちはそこにSFの文学 としての可能性を見た、のである。


(F&SF誌のスタージョン特集号より)

(ゼノンの肖像?)
「ゼノンの逆説」の法則(発見者:山岡悦郎、足立恒雄、野矢茂樹、吉永良正他)

◎その1[アキレウスと亀の逆説]:俊敏なるアキレウスは、先行する亀がいた地点に無限に到達せねばならぬ故に、ノロマな亀に永遠に 追いつけない。
◎その2[2分割の逆説]:目的地点に達するには、その前に半分の地点を無限に通過せねばならぬ故に、永遠に到達できない。
◎その3[飛ぶ矢の逆説]:飛んでいる矢は、今という一時点では静止しているが故に、飛んでいない。

[解釈] ゼノンは、紀元前5世紀のギリシャの哲学者で、「万有は一で球状をなし、非在は思考不可能」と主張し たパルメニデスの弟子。異端の師の説を証明するため様々なパラドックスを発明した、とされる。この2000年にわたり人類を悩ましてきた逆説 は、しかし、今や完全に(数学的には)解明された、と言う。以下、編者の理解できた限りで、逆説解明のヒントを掲げたい。

 その1[アキレウスと亀の逆説]:実際に両者を走らせてみれば、アキレウスが亀に追いつくのは自明であるが、それをパラドックスと感ずる のは、アキレウスが‘有限の時間’内に、亀のいた‘無限の地点’を通過せねばならない、という印象に囚われるからである。
 しかし我々の日頃の行動とは、実はこうした線上の無限の点を通過することに他ならず、ここで不可能なのはその通過の瞬間を無限に考え尽 くそうとする、思考それ自体なのである。

(「逆説」論の名著)

言いかえれば、「自然(あるいは行動)は連続体であり、無限大の情報を持つ(これを数学的には「無理数」を有して「連続の公理」を満たしている、と言う)。 かたや「意識」は「有理数的」で「不連続」である。つまり「不連続」な意識が「連続」した自然や行動を考え尽そうとしたために思考上の混乱が生じたわけで、 これこそが「パラドックス」の正体なのである。
 ここで一言付言すれば、「パラドックス」に苛立って、自然が「不連続」になれば我々の「思考」と対応するのに、などと望んではならない。そうなればまさに“アキレスは亀に無限に追い付けなくなる“わけで、 ホントのパラドックスになってしまう。
「自然よ、連続であれ」 と唱えること、これこそが(若干ストレスは感じるにせよ)健全な考え方なのでありマス(←上に掲げた「アキレスとカメ」の著者・吉永良正氏の主張)。

 その2[2分割の逆説]:これも、目的地に到達するためには無限の中間点を通過せねばならない、ということを‘ノロマな頭で考えよう’と するが故の混乱。アキレスのパラドックスが「最後の一歩」なら、こちらは「最初の一歩」を問題にしている、と言えよう。

 その3[飛ぶ矢の逆説]:無限小の時間である「今」に於いて矢は静止しているが故に、飛ぶ矢は飛び得ない、とする逆理。しかし、時点t で矢は確かに特定の位置に静止しているが、別の時点t’では別の位置に静止している訳で、この‘時間の経過に伴いその位置が変化すること’ を「運動」と言うのであるから、やはり「飛ぶ矢は飛ぶ」のである。

 以上の逆説解釈を一言でまとめれば「思弁は、現実に届かず」ということ。最新の脳科学では「脳は世界を0.3〜0.5秒遅く認識する」 (T.ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン』)という驚くべき事実が報告されているが、これも「脳=思弁」の限界を示す一例と言える。
 なおこうした考えは、諺で言う“下手な考え、休むに似たり”に通ずるかに見えて、微妙に異なる点にご注意を。すなわち後者には“上手な考え”が事態を打開する、 という下世話な期待感が有るが、前者のパラドックスにはその種 の期待は無い。有るのは、自らの思考の限界を知った者の、現実に立ち向かおうとする覚悟、である。


[注] というわけで一応の解決はなされたのだが、ことはそれほど簡単ではなく、「寄せ集め解 釈」と「切り口解釈」や「実無限」と「可能無限」の考え方など、『現代無限論』は「無限」の種々相にまで踏み込んでおり、まさに議論は尽きない。 すなわち「ことがらは『無限』に関係しており、最終的な決着は到底つくものではない」(山岡『哲学的探求』)のである。

(文豪トルストイ)

 なおかのトルストイが、この‘アキレウスと亀’について言及している箇所が有るので、ご参考までに掲げておく。

 「アキレウスがどうしても亀に追いつけないというこの無意義な回答は、アキレウスと亀の動きが不断のものであるにもかかわらず、運動の 断片的部分が恣意的に切り取られたために得られたものである。(この無意義さを認識すれば:編者注)万人の自由意志はある一人の歴史的人 物(→ナポレオン)の行動に表現されるなどと言うことを容認することは、それ自体虚偽であることを我々は痛感するのである」(『戦争と平 和』より)

 悠久たる歴史の流れの中で、個々人の行為は限りなく微少なものであるかもしれぬ。しかしその無数の自由意志の連なりこそが歴史なのだ、と トルストイ翁は宣言する。名も無い人々のエネルギーの集積こそが、アキレウスを動かし‘亀’という名の権力者に勝利する原動力、なのであ る。


(シリーズ合本表紙)

「生命と宇宙と万物の答え」の法則(発見者:D.アダムズ)

生命と宇宙と万物についての究極の疑問の答えは……42である。

[解釈] この‘答え’が載っている「銀河ヒッチハイク・ガイド・シリーズ」はSF翻訳作品中では出色のユ ーモア作品。著者アダムズはイギリスのシナリオ作家。さすが、モンティパイソやMr.ビーンを産んだ国の出身だけのことはある。
 数千万年の昔、人間とは似ても似つかぬ高次元の生命体が、自ら造り上げたスーパー・コンピューターに「生命と宇宙と万物についての究極 の疑問の答えは?」と問いかけた。それに対し、かのコンピューターは勿体振って「そのプログラムを遂行するには、750万年かかりま す」と答える。そして、750万年が過ぎて待ちに待ったその日、「答えは解ったかね?」と急き込む彼等にコンピューターは「解りまし た!」と宣言するのである。そして続けて「だが、きっと気にいらないでしょうね」と言い渋る。「教えてくれ」「気に入らないと思いま すよ」という押し問答の末、ついにコンピューターが告げた究極の疑問の答えとは……なんと「42です」であった! この答えには恐れ 入ったが、兎に角答えを出してみせる、というこの思い切りがいい。

[注] 一方、アメリカ・ユーモアSFの雄・K.ヴォネッガットJrにも、同じ趣向でコンピュ ーターに「自分たちの存在目的は?」と問いかける話がある。その答えは「ゼロ」。これは少し当たり前すぎて、ここは数が多い方(!) に軍配を上げたい。

(ご存じMr.ビーン)

韓国のカインとアベル

「嫉妬」の法則(発見者:D.ラガーシュ、M.クライン、G.ドゥピエール)

人は、自分が正当に所有すると考える人間、またはその愛情を奪われ、また奪われる可能性に対して嫉妬する。

[解釈] 「嫉妬」はよく「羨望」と混同されるが、「羨望」は、「他人が望ましい何かを我がものとして楽しんでいることへの怒りの感情」であり、あくまで、ただ一人の人物に対する関係である。一方で「嫉妬」は、「主に愛情に関係していて、当然自分のものと感じていた愛情が、競争者に奪い去られたか、奪い去られる危険があると感じた故の憎しみ」であり、自分以外に少なくとも2人の人物との関係を含んだものである(従って「嫉妬」の方が「羨望」よりも高度であり、発生的にも遅れて生じる感情なんですナ)。
 旧約聖書における「カインとアベルの母親をめぐる争い」が、この「嫉妬」の典型例で、
名付けて、「カイン・コンプレックス」という。
 そしてこの厄介な感情は、遠い旧約の時代の遺物ではなく、階級、身分差がなく、到る所に競争状況が生じた「現代」にこそ、広く蔓延する“心の闇“なのである(心理学者・詫摩武俊の言)。

[注] この「嫉妬」についての捉え方に、彼我の差があるのが興味深い。西欧では日常会話で「嫉妬」がよく使われ、日本では「うらやましい」に代表される「羨望」感情が一般的である。これは、西欧では甘えが許されずに競争場面に直面することが多く、翻って我が国では、甘えが容認されて競争心を顕わにすることを避けようとするため、と考えられる。


山本常朝(1659 -1719)

「七息思案(しちそくしあん)」の法則(発見者:山本常朝、葉室燐)

流れるように、さわやかに、凛とした気持ちでいれば、七つ息をする間に考えはまとまるものである。

[解釈] 山本常朝は、佐賀藩士。藩主鍋島光茂(みつしげ)に御側(おそば)小僧、小小姓(こごしょう)として仕えた。光茂死後に隠遁したが、後輩の田代陣基(つらもと)(1678―1748)の来訪を受け、後世、武士道のバイブルと評される『葉隠』全11巻を完成させた
その書に曰く―
竜造寺隆信公は、『考えることも長くすると腐ってしまう』といわれ、また鍋島直茂公は、『万事ぐずぐずしていることは、十の内七つはうまくいかない。武士はものごとを手っ取り早くするもの』といわれた」
 すなわち「七息思案」であり、さわやかに、凛とした気持ちでいれば、七度息を吸う間に考えはまとまる。腹がすわって、スキッとした気構えである、というもの。
ただ編者なりに解釈すると、この教えは「拙速に判断せずに七つ息をする間考えてから物事をなせ」という意味も含んでいる、と捉えたい。言わば、後掲『一瞬の法則』 での「一瞬の間」の心得に通ずる覚悟である。


[注] この「七息思案」の考えをもとに日々精進するのが、葉室燐 の時代小説『いのちなりけり』の主人公・雨宮蔵人。彼は、鍋島藩・角蔵流の達人だが、色黒で鼻が太くあごがはった顔立ちで部屋住みの身であった。それが、分不相応に家中筆頭・天源寺家の入り婿となったことから、水戸藩と幕府の暗闘に巻き込まれていく―。
全編を貫くのは、水戸の名花と称えられた妻・咲弥への、蔵人の無償の愛。「学問こそないが、死に遅れない」という「七息思案」の教えを胸に、蔵人は咲弥を守って死地に赴くのである。

(『いのちなりけり』)

(ネット作家・田口ランデイ氏)

「喪失」の法則(発見者:田口ランデイ)

喪失とは、瞬間的な狂気である。

[解釈] 田口ランデイは、人気ネットコラムから産まれた全く新しい形のベストセラー作家。 しかしその小説は意外なほどにオーソドックスで、失恋や肉親の死、といった理不尽な出来事を題材に、真率な省察が繰り広げられる 良質なエンターテインメント、である。
 当法則はそんなランデイ氏が、自らの深い「喪失感」を分析して辿り着いたひとまずの到達点。 愛する人がいなくなった時、人は瞬間的狂気に陥る。それは相手が、自分の一部を持ったまま居なくなった為に味わう‘空虚さや悲哀’によ るだろう。そのとき人は確かに、自らの一部を失った、のである。(なお、このあたりの「恋愛」についての分析は、後掲「三島由紀夫の『欲望と 意志』の法則」を参照のこと)

[注] しかしランデイ氏は後に、こうした‘他者と心身で繋がる’ことの辛さを克服。他者 によって痛みを感ずるのは、実は、自らの中にその痛みの相似形があるためだ、という発見に至る。すなわち他者による痛みは、自らが 内包する同種の痛みに気付かせてくれ、ために癒しの「光」となる筈だ、と主張するのである。身辺何かと喧しいランデイ氏だが、こうした 啓示に満ちた発言をする作家魂は、信頼するに足る。