(翻訳書表紙)

マーフィーの法則(発見者:マーフィー博士)

まずくなる可能性のあるものは必ずまずくなる。

[解釈] アメリカで最もポピュラーな人生法則。その発見者・マーフィー博士については諸説紛々で、航空研 究所の開発技師、偉大な教師、ユダヤ協会への寄贈者などの証言がなされているが、真相は不明。どうも空想上の人物ではないか、という 説もあるが、一方、我が日本で博士が死ぬ直前に対談した、という本(『マーフィー博士の最後の言葉』)も出版され、議論は止まるとこ ろを知らぬ。なお、この本でのマーフィー博士は、アイルランド生まれで弁論術を学び1981年死亡、ということになっており、写真まであっ ていかにも尤もらしいのである。
 その法則の根底にあるのは、人生に対する真摯な姿勢。以下その主要法則を列挙する。

  • 悪いことはドサッとかたまって起きる。
  • 何事も見かけほど簡単ではない。
  • 放っておくと全ての物はますます悪くなる。
  • 全てがうまく行っているように見えたら 、何かを見落としているのである。
 これらの法則が学生生活に援用されると、
  • 試験には常に講義で論じられなかった問題が出題される。
 となり、マーフィー夫人に意見を求めれば、
  • まずくなる可能性のあるものは、必ず亭主の出張中にまずくなる。
 と、愚痴っぽくなるのであった。
 以上、いずれも‘何事にも油断するな’という覚悟が感じられ、アメリカ物質文明の繁栄は、実はこうした厳しい現実認識の上に成り立っ ているのだ、ということを伺わせてくれる。ここに、アメリカン・プラグマティズムの精髄がある、と言ってもよいだろう。

(池澤夏樹 1945-)

マニピュレーションの法則(発見者:池沢夏樹)

適当な「操作」により何事も管理が可能である。

[解釈] Manipulation、即ち「操作」である。身体の操作でフィットネス、市場の操作でマーケティング等、適切な 操作により世界は操縦可能な系になる、という考え方で、これもまた如何にもアメリカ的法則である。
 そして、トム・ソーヤーが無理やり飲まされる強壮薬も健康を「操作」するためであり、この「健康マニピュレート」に失敗したのが、かのプレ スリーだった、という次第。アメリカの書店で一つのコーナーを「ハウ・ツー」本が占める、という異様な光景も、この法則の存在によって 説明出来るだろう。

(「夏の朝の成層圏」)
[注] これに似た考えに「ブッキッシュ(Bookish)」というのがあり、これは本を読むことに よって外界を操作する術を身につけられるのではないか、という考え方である。ノーベル賞作家・大江健三郎あたりの(そして、実は編者の) 秘められた信念である。なお、池澤は前出福永武彦の息子だが、両親が離婚したため、自身、福永が父であることを高校時代まで知らなかった、という。そしてその偉大な父が死ぬまで、小説(処女短編は「夏の朝の成層圏」)は書けなかった、とも告白している。


(1914-1986)

マラマッドの「悪化」の法則(発見者:B.マラマッド)

以前の状態が最悪と思ったが、今はもっと悪い。

[解釈] ユダヤ系作家マラマッドが長編「フィクサー」の主人公に語らせた感想である。
(「フィクサー」原書)

帝政末期のロシアで、平凡なユダヤ人の修理屋ヤーコフが少年殺しの疑いで投獄。石の独房に入れられた彼の上に、その時代特有の人種的・政治的迫害が加えられる。そして徐々に閉塞的な状況に追い込まれたヤーコフは“前の状況も耐え難かったが、今はそれよりもっとひどい”と嘆息するのである。この、絶望の縁にありながら、なお微かなユーモアを感じさせるのがマラマッド流。そこには「ユダヤ人というものはいじめられるのだ」(「魔法の樽」の神学生の述懐)という作者の穏やかな諦観がある。またこの考え方は、前出「心理操作の法則」中の「対比の法則」(“状況をもっと悪い場合と比べよ”)のヴァリエーションとも捉えられよう。ただその“状況”が将来に起こるところが、ちと「比較」しにくいわけですが…。

[注] 前出イリフ&ペトロフフリードマンも同じくユダヤ系。何れもマラマッドに似た“明るい悲観主義”の持ち主と言ってよい。永い民族への迫害の歴史が産んだ自衛のユーモアである。


 (三島由紀夫VS東大全共闘)

三島由紀夫の「欲望と意志」の法則(発見者:三島由紀夫)

「欲望」とは「断固として望まぬことをやり遂げたい」と思うことであり、「意志」とは「その欲望を何としても持続させること」である


[解釈] 実は生前の三島は編者にとって、その技巧の冴えに感嘆しても、心の底からの感動が得られない「隔靴掻 痒」の感のある作家だった。しかし一方で、その自死に至る煌(きら)びやかな一生は、編者を含めた文学愛好者の心を妖しく波立たせずにはおか ない。そうした気持ちを鎮めてくれる優れた三島論が、最近、相次いで上梓された。橋本治の『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』と、 出口裕弘の『三島由紀夫・昭和の迷宮』である。
 その2作品の論旨を強引に纏めてしまうと――

@幼少期の三島は、祖母・母親の溺愛、元華族という家柄等の「庇護」の下、“塔の中の王子”として幸せだった。そしてその王子の性的 嗜好は、下層民の若者の肉体に欲情する、という異常なものであった。

Aそのままでは虚弱な文学的神童にとどまるが、三島はその類稀な頭脳と自己克服の意志により、世俗的な成功(東大卒の大蔵キャリ ア!)をおさめ、自らの性的嗜好を世間から冷笑されないようにと企む。さらに‘スパルタ式訓練’により肉体改造を遂げ、かつて憧れ た『禁色』の南悠一や『午後の曳航』の龍二のような‘戦士’に変貌する。

Bしかしこの‘観察する三島’(例えば『春の雪』の本多繁邦)と‘行動する三島’(同じく、松枝清顕)は、あくまで 「物語の中の自分の分裂」に過ぎず、そこには、‘他者としての女性’はついに存在し得ない。このあたりの事情を一番わかっているのは作者 自身で、『豊饒の海』四部作の末尾に至り、松枝清顕の愛人だった綾倉聡子に「(そんな人は)もともとあらしやらなかったのと違ひます か」と、三島自身、そして作品そのもの、までも全否定させるのである。  

 すなわち三島は、本来の自分に飽きたらず、上記法則の如きマゾヒステイックな「欲望と意志」により望ましい自分を造り上げたが、 それは「物語の中の分裂した自分」に過ぎなかった。かくて、自らを釈迦の手の中の悟空、と悟った彼は、「作品外の現実が自らを強引に 拉致する」ことを望み、ついにそれを実行に移したのである。その時、十代で謳った「夕な夕な/窓辺に立ち待った/椿事」は、待ち望んだ 彼の下に静かに訪れたのであろうか。

[注] 三島は、‘自分大好き人間’で(まあ、それに値するだけの魅力的な「自己」ではあった が)、ついにはそうした‘破滅好きの自分’に殉じたことになる。日本画家・杉山寧の娘と結婚、幸せな家庭を営んでいるように見せなが ら、実は彼の心に‘他者としての女性’は存在し得ない。そして彼が、「恋愛とは相手とひとつになりたいという衝動だから、女を 愛する男は、女になりたいのである」と断ずるとき、自分は決してそのような「恋愛」をしない、と心密かに誓っていたと思われる。そして この恋愛についての鋭い分析は、前掲・田口ランデイの「『喪失』の法則」や、後掲「ラカ ンの欲望の法則」と時代を隔てて響き合っているのである。 


(1960年〜)

宮部みゆきの「欲」の法則 (発見者:宮部みゆき)

別れる前から怯えて暮らすのは、別れが怖いのではなく、自分の手にしたものを失いたくないというに、振り回されてているだけだ。

[解釈] 現代ミステリ界の女王・宮部みゆきが紡いだ、渾身の時代ミステリ『ぼんくら』『日暮らし』2部作の一節から。
昼行灯(あんどん)のごとき本所深川の同心・井筒平四郎が、夫婦喧嘩中の植木職人・佐吉夫婦に伝えた言葉である。この卓抜な指摘にも見られるごとく、“ぼんくら”な彼だが、いざというときの切れ味は鋭イ(不釣合いな美人の妻女もそこに惚れたのであろうか)。
なお、この言葉には前段が有り、生き物が死ぬのが嫌で動物を飼わない、という弓之助 (推理力抜群の12歳。妻女の甥で“超美男子”でもある)に対し、平四郎は「生き物と別れるのは嫌だ、だから飼わないというのも欲だ」と、諭(さと)している。
悩んでも仕方がないこと(「将来別れるかもしれない」、「いずれ死ぬかもしれない」など)に怯えるのは、“ただただそうありたい”と願う「欲」でしかない、と平四郎(そして、作者)は喝破するのである。

(傑作「ぼんくら」)

[注]  本シリーズは、何せ登場人物が魅力的。平四郎・弓之助コンビの呼吸も絶妙だが、その力強い味方の「おでこ」と岡っ引・政五郎の造形も見事である。特に「おでこ」は、驚異の記憶力を持つ「人間テープレコーダー」という設定で、同年配の弓之助の親友でもある(2人とも、その異能ぶりにかかわらず“少年らしい初々しさ”を保っているところが微笑ましい)。
彼らの挑む謎が、20数年前に遡る大店の「お家の事情」。そして“封印された因縁”を解きほぐそうとしたとき、彼らの前に立ちはだかる大店の主人・湊屋総右衛門の圧倒的存在感も、本書の読みどころ。彼こそは、悪の魅力芬々(ふんぷん)たる本作品のアンチヒーローである。

この連作時代小説は、ミステリの骨法をシッカリと押さえている点でも出色。 シリーズ冒頭の短編「殺し屋」では、タイトル「殺し屋」の“重層的な意味”の解読が鮮やかだし、掉尾(とうび)を飾る中篇「日暮らし」ではヴァン・ダインの初期の名作を思わせる謎解きに唸らされる。 そして何よりも、終幕近く、弓之助が声を振り絞って語る次の言葉の衝撃――、 「ほんの刹那(せつな)でございますが、こんな苦しい暮らしをしている人たちの前では、誰が*さんを殺そうが何が理由であろうが、そんなの、たいした問題ではないと思ってしまいました
作者はここで、“日々の営み”の前では謎解きごっこなど児戯に等しい、とミステリの存在意義にまで疑問を投げかけている。そして読者はこのとき、『日暮らし』(→日々の営み)というタイトルの重みに、今さらながら気付くのである。
“宮部みゆきは進化する”という帯の文句は、伊達ではない。  


(1889〜1962)

室生犀星の「詩人」の法則 (発見者:室生犀星)

詩人は早く死んではならない

[解釈] 室生犀星と言えば、第二詩集『抒情小曲集』中の一節「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたうもの」(「小景異情」)が有名な抒情詩人。
(中公文庫版)

その彼が晩年に著した『我が愛する詩人達の伝記』は、親交のあった詩人達への愛情あふれる傑作評伝であった。そして先に死んでいった仲間達に向け、犀星が手向けた言葉が上の“法則”である。北原白秋57歳、萩原朔太郎56歳、堀辰雄49歳、立原道造24歳、津村信夫35歳、山村暮鳥40歳――本書で取り上げられた詩人の内6名が還暦を待たず逝去。特に師の白秋、親友の朔太郎の早世は、犀星に“詩人は早死にする”の気持ちをもたらしたと思われる。自らは死の間際まで執筆意欲が衰えず、「晩年の仕事(中略)により、犀星は同時代のすべての文学者を抜き、谷崎潤一郎と並ぶ、あるいはそれ以上の 大正以後の最大の文学者になった」(奥野健男「素顔の作家たち」)と称揚されたが、それも戦後長生きしたお蔭とみれば、この言葉の意味は深い。
ここで、犀星らしい名文句をもうひとつ。
北原白秋が、別れた女性たち(松下俊子、江口章子のふたり)について抱いた思いを、犀星が推し量った箇所である―「白秋の肉にはふたりの爪あとがのこっていて、その痒さを白秋は目をほそめながら掻いていた日もあろうと、私には思えた。愛情は古いほど永い間薄ら痒い」 この“薄ら痒い”が、まさに言い得て妙。
(「素顔の作家たち」)

[注]  上で引用した奥野健男「素顔の作家たち」は、評論家・奥野が付き合いのある作家たちを取り上げ、その“素顔”を紹介したもの。登場する文学者132人、連載期間18年に及ぶ労作である。編者はこの本で、北原武夫船橋聖一和田芳恵といった純文学ではあまり省みられない大家たちの真価を初めて教えられた。 奥野の率直な物言いが各作家の本質を明らかにする“名評論集”であると思う. 


(1880-1942)

ムシルの「愛」の法則(発見者:R.ムシル)

@子供というひとりの人間は、親にとって、その内奥の本質が、自分の肉に左右されると同様に、その肉体に左右される、その肉体の飢え、疲れ、聴覚、視覚が、親のそれと結びつく、という非現実的な存在である。
A愛はあらゆる人間のためのものであるかのように、しかし同時にたった一人の人間のためのものであるかのように存在しうる。

[解釈]
 ロベルト・ムシル(出自のチェコ語読み。ドイツ語ではムジール)は、プルースト、ジョイスに比肩するオーストリアの小説家。その未完の大作『特性のない男』は、20世紀文学に屹立する一大巨峰である。なおムシル自身は、プルースト、ジョイスについて「溶解したものを描いているが、実際の手法は、かつて事物のはっきりした輪郭を信じていた時と、全く同じだ」と手厳しい。まさに、「高貴な獣(ただし、旺盛な一年間の活動の後は5年間の冬眠が必要)」(F.ブライ)と評されたムシルの面目躍如と言うべきか。一方で、母国文学界でも無条件にムシルを信仰しない一派もいて、「『特性のない男』は、美しいオアシスのある砂漠のようなもの」とも言われる。つまり、オアシスは素晴らしいが、オアシス間の移動は「つらいことがある」(M.ライヒ=ラニッキ)というわけでありマス。
「三人の女」表紙
当法則は、そんなムシルが短編集「三人の女」「愛の完成」で開陳した“愛”についての省察である。
@「三人の女」の一人目「グリージャ」の主人公ホモが、遠い地で病気療養中の息子に思いを馳せた時、自然に湧き出た感慨である。自分以外は全て“他人”のこの世界で、子供こそは唯一の「内奥の本質」を共有する存在なのだ、という啓示―この「他人とは違う別種の存在」によって、主人公は「一切の疑いを免れた天上の秘蹟として、を経験」するのである。
このムシル一流の堅牢な文章を編者流に読み解けば、自らと同じDNAを持つ子供という存在が、人に愛の可能性を信じさせる、ということ。確かに、他人だらけのこの世界で最も自らに近いのは、自分の子供に他ならない。子供こそは、自らとその肉体の飢えや疲労、聴覚視覚が密接につながりあっている「奇跡的存在」(これをムシルは「非現実的」と表現する)なのである。
Aは、
「愛の完成」で暗示される“愛のパラドックス”についての考察である。人は、特定の人物を愛していても、性愛の場面では広範な他者と自由に(のように!)結び付くことができる。しかしそこには「獣としての孤独」がある。一方で、人は逃れようもない「時間」の軛(くびき)の中で、「時間の孤独」をも味わざるを得ない。こうした「孤独」に打ち克つためにムシルが提示する解決策は、“ほとんど常識の理解を絶する“(川村二郎)方法であった。すなわち、恒常的な愛のパートナーシップを保ちながら、自由な性愛の可能性に身を投ずる時、人は「孤独」から解放され、「愛完成」する、と説くのである。
まぁ卑俗に見れば、浮気の肯定とも取られかねない言辞だが、前掲
「グリージャ」でも、主人公ホモが山の女グリージャと情事を重ねることによって妻との愛を再確認する、という場面があり、作者が「愛の神秘」について考察した末の信念なのでありましょうか。
マルタ(1886-1949)
なお、実際のムシルの愛情の対象は、「三人の女」の三人目トンカのモデルとなったヘルタ・ディーツなどが挙げらるが、何よりも愛妻マルタ・マルコヴァルディ夫人の存在が重要である。自らも画才を持つ六歳年上の夫人は、 二度の結婚の後、二人の子を連れてムシルと再婚。その母性的愛情でムシルを支え続け、夫の死後は未完の大作の出版に尽力する。6年後に愛する夫の後を追ったが、まさに天才ムシルに相応しい伴侶であった。

[注] ムシルの著作には、 上記の“愛についての省察”以外にも、数々の「息を呑むほどにめざましい比喩」(生野幸吉)が頻出するが、以下にその一部を掲げてムシルの天才ぶりを味わってみたい。

・「人生には、奇妙に歩調をゆるめて、前進をためらっているのではないか、それとも方向を転じようとしているのではないか、と思われるような一時期がある。このような時期にひとは不幸におちいりがちなものらしい。 」(「グリージャ」以下、全て川村二郎訳)
―よくわからないのだが、こういう感じって有るような気がしてくるから不思議。ムシルの文章の勝利である。
・「運命が口をつぐんでいたい時に、語ることを強いてはならない。やがておとずれるものを待ちうけて、耳をすまさなくてはならないのだ。」(「ポルトガルの女」)
―ひとは運命に対し謙虚であれ、という思いが、ムシルの思考の根底にあるような気がする。
・「とある池垣のほとり。一羽の鳥がさえずった。と思うと太陽は、もう藪かげのどこかに姿をかくしていた。夕方だ。百姓娘たちが歌をうたいながら野をこえて来た。こんな書き方はくどいって?だが、 このような一部始終が、まるで栗のいがかなんぞのように、人の心にまとわりついてはなれないとしたら、それは些細なことだろうか?それが、トンカだった。無限というものは、 しばしば、ひとしずくずつ滴り落ちるものである。」(「トンカ」)

―トンカは言わば、自然の化身である、ということを表明した美しい一節。芸術とはついに、こうした一瞬をとらえるためのものではないのか、とすら思わせる見事な描写である。そこには、束の間の平和のうちに見出された自然の美しさがある。
・「事件というものは、時節がらも場所がらもわきまえずに起きるものである。」(同上)
―この感じも納得。この後、本文は「そんな時ひとは(中略)誰もしまってくれない品物のように無力になる」と続くが、この比喩もまた秀逸。
・「彼女(トンカ)は精神につき従う自然だった。みずから精神と化することは願わないが、精神を愛し、飼いならされて家畜になった野獣のように、ひしと精神によりそう自然だった。」(同上)
―何やら、トンカにマルタ夫人の面影が重なるような描写である。
・「考えるとは、考えすぎないことだ。ありあまる才能を多少とも抑制することなしには、いかなる発明も不可能である。」(同上)
―これは、“自分の真実のためには拙劣や冗漫を辞さない”作家の言としては意外。ムシル自身の自戒の念であろうか。
そして最後に(評者には謎の)一節を。
・「トンカは、自然というものが、夜空の星のようにちりぢりになってさびしく生きている、ささやかな醜いものばかりでできていることを感じただろう。
―今までの文脈で言えば“美しい”はずの自然が、「醜いもの」と感じられるのは何故か? 編者はこの突然の変貌に戸惑うが、こうした多面的な捉え方も、またムシルらしいと言えば言える。あるいは、他ならぬ“自然の化身”トンカ故に、かえって自然の醜い本質を見抜いたということであろうか? 何れにせよこの作家、一筋縄ではいかない。

(メイ・サートン女史)

メイ・サートンの「肉体」の法則(発見者:メイ・サートン)

肉体は聖なるものである。

[解釈]
 メイ・サートン(1912-95)は、ベルギー生まれで4歳のときアメリカに亡命した小説家・詩人・エッセイスト。 『独り居の日記』が翻訳出版されて以来、その自然への讃歌、孤高の思索を愛する読者も多い。当法則は、そんなサートンが66歳の時に 乳癌の手術を受けた後、ゆっくりと回復に向っている時に抱いた深い感慨である。

 「身体は宇宙そのものであり、どのような創造物、不思議なちからをもつ鳥や昆虫や蛾や虎などとも同じ聖なるものとみなされなければ ならない。肉体が聖なるものであることを忘れては危険だ……。

 頭デッカチになった現代人は、再度、肉体の持つ偉大な力に思いを至さねばならないのである。

[注] これほどの 強靭な思索の人が、ついに肉体の自然な力を前に思考を放棄し、ただ聖なる身体を讃美する、という態度が印象的である。前掲「『ゼノンの逆説』の法則」に通ずる覚悟と言ってよい。


(J.Merrill 1923-97)

メリルの「天才」の法則(発見者:J.メリル)

同じ趣向の作品をいくら読まされても飽きが来ない作家は“天才”である。

[解釈]
 ジュディス・メリル女史は、日本にも知己の多かったアメリカのSF作家兼アンソロジスト。なお元夫は (F.ポールとの競作『宇宙商人』で有名な) かのC.M.コーンブルース である。その独特な視点は、SFを単なる科学小説と捉えず、もっと広く(社会学的or心理学的等)スペキュレーション・フィクション と考えた。そのため女史の編んだ「年間SF傑作選」には、J.カーシュR.ブレットナーK.リードといった 曲者達が集結。変わったところでは、B.マラマッド(!)の「ユダヤ鳥」 なんてのもあり、編者の多読ぶりを示す傑作アンソロジーであった(もちろん、C.スミスA.ベスターといった純正SF作家もキチンと選ばれていマス)。
(P.K.Dick 1928-82)
当法則は、そんなメリルがP.K.ディックを評していった言葉―「ディックが書いているのは、小説でなく、コミックスのコンテなのだ」(『SFに何ができるか』)―から導き出される。感情移入を拒否する登場人物、異様なトリップ感覚、そしてシミュラクラの跳梁するゾッとしない世界。こうしたガジェットが繰り返されても、読者はディックの描く悪夢世界に戻ることを躊躇しない。それはデイックが“自分の思想を表現するためなら、どんなナンセンスを利用することも辞さな”(同)かったからであり、その執念が読者を飽きさせないのである。繰り返しに耐えうる世界を構築する才能―ひとはそれを“天才”と呼ぶ。

(「火星のタイムスリップ)
[注] ディックの傑作は数々あれど、代表作としては、名訳者・浅倉久志氏絶賛の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』が妥当なところか。編者は、それに加え(構成は破綻しているが、それを越える圧倒的崩壊感覚が魅力の)『火星のタイム・スリップ』を推薦しておきたい。特に印象に残るのは、火星の学校の狂ったティーチング・マシン“やさしいパパ”。このカウンセリング・マシンは歯車の歯がカチリと外れ、悩みを訴える主人公に、ただ「そうあるべきだよ」と繰り返すのである。


もてる男の法則(発見者:竹内久美子1956-)

もてる男は、シンメトリーである。

[解釈] 竹内は、その処女科学エッセイ『そんなバカな!』で、最新の動物行動学を紹介し、担当編集者に‘そん なバカな!’と叫ばせ続け(そしてそれを著書名にし)た女流サイエンティストである。当法則はそんな動物行動学の最新成果を、タケウチ流に 料理したもの。 シンメトリーであることは(体の出来がいいわけで、つまり)寄生虫パラサイトにやられなかった、という優れた免疫力 の証し。そして、メスの目的が免疫力に優れたオスの遺伝子を得ることであるなら、メスがシンメトリーなオスを求めるのは当然、という三段 論法である。
 では、シンメトリーな男とはどのような特徴を持っているのか。

 @匂いがいい(臭くない)  A顔がいい  Bケンカが強い  C筋肉質の体をしている  D IQが高い  E童貞を失うのが早い  F経 験した女の数が多い  G精子の数が多く、質も高い

 評者などはこの殆どの条件に合致しておらず、思わず愕然。種として存在意義が無いのでは、と思い悩んだのである(まぁ、これらの条件を もった男としてイメージされるのは「ルックスがよく、真に賢い不良」といったところであり、合致しないで当たり前ではあるが)。

[注] 著者の功績は何よりも、R.ドーキンスの‘利己的遺伝子’の考え方を分かりやすく紹介 してくれた点。未だダーウィンの‘種の保存’則に囚われていた一般読者の誤りを糺し、「個々の個体は種ではなく、自分の遺伝子を残すため に行動しているのだ」と教えてくれたのである。
 その利己的遺伝子故に、旦那は自らの種をバラ撒かんと浮気に精を出し、姑は次の花嫁候補を探すために身籠もった嫁を苛めて追い出そう とする。また、オスと違いメスは、産むことの出来る子の数に限りが有るためオスの選択に慎重となり、その結果(男は普通っぽいタレントが 好きなのに)女はカッコいいタレントが好きになるし、男二人女一人のいわゆる「ドリームズ・カム・トルー」型グループも増えることになる。
 些か味気無いが、これが人間の動物としての性。後は、この本性を直視した上で、人間としての尊厳を追求せよ、ということであろうか。



Backmusic:
Dreams Come True 「Monkey Girl Odyssey」

(1191-76)

森有正の「人生あとずさり」の法則 (発見者:森有正、P.ヴァレリー)

我々は時の中をうしろ向きにしか進めない。

[解釈] 森氏はパリ大学で日本文学、思想を講じた我が国の 代表的哲学者(なお氏の祖父は、明治の元勲・森有礼)。 本法則はその森氏が、有名なブック・デザイナーで心の恋人でもある栃折久美子氏(1926-2021)に送った手紙の中の一節である。
そしてこの言葉の後には、次の文章が続く。
……(ヴァレリーが言ったように)だから希望も失望もないのです。ただ過去だけが私どものあかしとして眼前に展開し ているのです。私もあとずさりをしながら進んでいきます。
確かに人は、行動している渦中の"現在"、その瞬間を把握できない。全ては過ぎ去った後、「あとずさりしながら」 眺める しか術がないのである。

(「森有正先生のこと」)
[注]この箴言は、栃折氏の著作『森有正先生のこと』(装丁も、勿論、 栃折氏)からの抜粋。なお本書は、著者の森氏への敬愛の念(時にそれは恋情に高まったりするが)溢れる美しい回想記である。
なかでも印象的だったのは、森氏の独特な風貌。
スポーツ刈りに近いくらいの短い髪。口髭を蓄えた恰幅のいい人は、藍色の単衣の袖をパタパタさせながら、抱えた魔法瓶の蓋を取 ろうと苦心している。」 これは、栃折氏とその友人石岡瑛子氏(この人も日本を代表するデザイナー)が初めて会った時の、森氏のプロフィールである。 そして、森氏と別れた後、石岡氏は彼のことを「エネルギッシュでユーモラス、意外な感じだったけれど魅力ある」と言い、当の 栃折氏は「私はうなずきながら『精悍』と言う言葉を加えたいと思っていた」と言い添える。いずれにせよ、当代を代表する女性二人に、強烈な印象を残したことだけは確かである。
そんな森氏の"人生についての箴言"を、本書からさらに拾ってみると――
本当にその人が欲しかったら(中略)自分の部屋をきれいにして、自分の仕事を一生懸命にすることですよ。そうすれば 向こうから飛び込んできます
神という言葉はね、これは何万というキリスト者が、命がけでやっていることですから(中略)神という言葉を軽々につかうの はよくないと思いますよ」(因みに、栃折氏は家族の中で唯一、キリスト教信者でないそうな)
「(私の本は)死刑囚に読んでもらえれば本望ですね