(「タイム」誌表紙)

ライスの「哄笑」の法則 (発見者:C..ライス)

非日常の地獄から平和な日常に戻るためには哄笑することが必要である。

[解釈]  クレイグ・ライスは、1940年代に 一世を風靡した閨秀ユーモア・ミステリ作家。その人気ぶりは、ミステリ作家として初めて 「タイム」誌の表紙に 登場したほど(1946年)。我が国でも評価が高く、中村真一郎福永武彦といったガチガチの純文学作家が異口同音に礼賛。曰く「純文学作家が嫉妬を覚えるくらい情景と心理の再現に成功している」(中村)あるいは「ライスとクイーンはドン・キホーテとサンチョ・パンザほどに貫禄の違いがある」(福永)など、惚れ込み方も半端でない。当時より「スクリューボール(=1930年代アメリカの軽快なテンポの喜劇映画)ミステリの女王」と称されたが、ではそのハリウッド的ユーモアとは――

(「大あたり殺人事件」表紙)

@意外性の有る言い回し:鉄火肌のヒロインヘレンが言う―「結婚したのは別れるためよ」(『大あたり殺人事件』)
Aタイミングの微妙なズレ:おしゃまな
アルバータが酔いどれ弁護士マローンに擦り寄って「マローンおじさん、あたしだあいすきよ」と言うと、マローンは“ゆっくり深呼吸して”こう応える―「相思相愛というわけか」(『マローンご難』)
等が代表的。だが何よりもそのユーモアを特徴付けるのは
“日常性の中にポッカリと空いた非日常的な陥穽を笑い飛ばす”作者の心意気にある。作品の随所で、弁護士マローンの周りには「何かいやなことが起こり」かけ、新聞記者ジェークは「震えながら気分が悪くな」り、社交界の花形モーナ・マックレーンは「白い指を神経質に震わせ」ている。そして洒落者ビンゴも「夜の十一時に、どこともわからぬ街で、息絶えたギャングの体を肩に寄掛からせ」ながら「少々気分が悪く、そして大いに気味が悪」くなる。こうした絶望的な非日常世界(なにせ、死体を背負っているのである!)にあってこそライスのユーモアは発揮され、その状況を笑い飛ばすことによって、ライス自身を、そして我々を平穏な日常に回帰させてくれる。 女史は、自らの短編に「Life can be horrible(人生はゾッとしない)」という題名を冠したが、自身は決してその人生に絶望していなかった(そうでなければ、『スイート・ホーム殺人事件』のような“暖かい”ミステリは書けない)。

(1908-57)
[注] この“ツライ非日常世界”を笑おうとする性癖は、ライス自身の悲惨な生涯と無縁ではない。18歳の時からボヘミアン的放浪生活で、30歳前後には立派なアルコール依存症、かつ大変なヘビースモーカーであった。生涯に3度(から7度まで諸説あり)の結婚をし、片方の耳・目が不自由で、自殺未遂も2回経験、という凄まじい生活をおくり、ついにはアパートの一室で「自然死の状態で」発見されるに至る。享年49歳―地獄のごとき生活(登場人物の一人は「毎日いつも一時間、本気で地獄を信じたくなる」と告白する)の中で、なお読者の心を暖かくするミステリーを残した、その類稀なる才能に合掌。

(1901-1981)

ラカンの欲望の法則(発見者:J.M.ラカン)

男性は本質的に女性を希求し、女性は本質的に狂気を希求する。

[解釈] 一読忘れ難い印象を残すこの法則は、フランスの偉大な精神分析学者・ラカンによって提唱。彼のスロー ガンは「フロイトへの回帰」であり、‘欲望(希求と同義?)は生の原動力であり、無意識の要であり、去勢(!)に関する感情によってしか存続し 得ない’というテーマを展開した(らしい)。
 評者には、このテーマと冒頭の法則が微妙に対応しているような気がするのだが……。

[注] と自信のないのも、実は本法則が吉本隆明の文章からの孫引きのため。ただこの言明が、 我が国屈指の思想家の心の琴線に触れたことだけは、確かである。
 なおラカンは、’80年「パリ・フロイト派」解散会議のとき、朋友L.アルチュセールから‘見事にして哀れな道化師’と論難されたが、これは 当時アルチュセールが、(後に妻殺しの容疑もかけられるほど)ひどい躁鬱病だったため、とされる。偉大なる友情の哀しい結末。


(1872-1970)

「ラッセルの逆説」の法則(発見者:B.ラッセル卿)

それ自身を要素としない集合Nは、それ自身を要素として持つ、という矛盾を生ずる。

[解釈] 英哲学界の泰斗・ラッセルが、自らの数学原論を究めんとして逢着したパラドックス。その原型は「ウソつき クレタ人のパラドックス」として知られ、「私が言うことは全てウソです」と言う者がいる時この言葉が真実かウソかは確定しない、という逆説 の発展形である。
 ラッセルは、1900年当時隆盛した「集合論」を分析している内に‘集合の集合’という概念に行き着き、そこで後に「ラッセルのパラドックス 」と名付けられる逆説を導き出す。即ち「それ自身を要素としない集合Nが有る時、Nがそれ自身を要素として持っていると仮定する[N∈N] と、(右辺の)Nの定義により、(左辺の)Nはこの集合の要素でない[¬(N∈N)]ことになる。一方、Nがそれ自身を要素として持たないと仮定 する[¬(N∈N)]と、同じく(右辺の)Nの定義により、(左辺の)Nはこの集合に属さねばいけなくなる[N∈N]。これは矛盾である」というも の。
 そしてラッセルは、これらのパラドックスは〈タイプ〉(「階型」)の違う集合を同列に論じている故に生じた混乱である、として、「自分を要 素として含む集まりを集合として扱ってはならない」という解決策を提示する。
 これを言い替えれば、人は次元の違う集合(や物事)を同列に 考えようとする時、頭の中が(パソコン・エラーで言うところの)‘ビジー状態’になってしまい、収拾できない混乱に陥る、ということ。ただ、 このパラドックスに耐え得ないようであれば、人間の頭もパソコン並みということになって、いささか寂しい気もする。


ラプラスの法則(発見者:(多分)ラプラス)

ある代替案の満足度は、各シナリオに対する満足度の平均値で表される。

[解釈] 前述「意思決定の法則」の‘日常的’バリエーション。即ちどの案を選ぶかは、その案を選んだときの 各シナリオでの利得の総和が最大のものを選ぶべきである、という戦略である。この選択の前提にあるのは、各シナリオの起こる可能性が 等しい、と言う暗黙の了解。この考え、わりと日常生活でよく使う判断基準なのではなかろうか。

[注] 日本の国際貢献に対する考え方について、今まで挙げた「意思決定の法則」で選択肢を 探ってみると、――

上記「ラプラスの法則」では、‘国際紛争には資金援助で充分’とする「社民党」の立場が採られるだろうし、
 ミニ・マックス戦略では、‘医療等の貢貢’が選択されて、これは今や消滅した「新党さきがけ」の考えに近い。そして、
 マクシ・マックス戦略では、(予想通り?)‘国連平和維持軍・PKFの派遣’が選択されて合併前の「自由党」の考えと重なり、
 ミニマックス・リグレット戦略では、‘国連平和維持活動・PKOを続けよ’と現実的な「自民党」寄りの考え方になるのである (『孫子の兵法の数学モデル』木下栄蔵著より)。

 「ラプラスの法則」が意外と優柔不断であり、逆に「ミニマックス・リグレット戦略」が現実的かつ保守的であること、が発見であっ た。


(N.ワッツ&A.ブロディ)
「リアリティ」の法則(発見者:P.ジャクソン)

フアンタジーにもっとも必要なものはリアリティだ

[解釈] ’05年に上映された決定版(だと思う)『キングコング』監督P.ジャクソンの言葉。ファンタジー超大作を製作するに当っての、見事な覚悟である。
ために、その製作費用は『タイタニック』を超えて史上最高となり、
「髑髏島(スカル・アイランド)」に棲息するクリーチャー(創造された生き物)の数は『ロード・オブ・ザ・リング』3部作(これ、ジャクソン監督の前作にしてアカデミー賞受賞作!)を上回ったという。また、眼を見張るキング・コングの精巧な動きは、俳優(←実は『ロード・オブ・ザ・リング』でゴラム役を演じたアンディ・サーキスです)がコングとなって演じたシーンを、モーション・キャプチャーでコンピューター合成した成果でもある。このモーション・キャプチャーは、ナオミ・ワッツ演ずるアン・ダロウが、コングに持ち上げられるシーンなどにも使用。つまり俳優の方が特撮対象となる、という“逆転の発想”が、あの驚異の映像を可能にしたのである。 さらに、1930年代のニューヨークを再現し「スカル・アイランド」も創造したコンピューター・グラフィックスも見事。 配役も演技派を揃え、ヒロインのナオミ・ワッツ、彼女を愛する脚本家エイドリアン・ブロディ、そして監督役のジャック・ブラックも、特撮ものにありがちな“型どおりの演技”とは無縁の、生きた人間を演じ切った。
そしてこのあくまで
リアリティに拘る姿勢を、ジャクソン監督は前作『ロード・オブ・ザ・リング』撮影中に学んだという。あの名高いファンタジーの映像化には、何よりも観客を納得させる“リアリティ”が必要だったのである。彼は言う――「ストーリーがファンタジーに近ければ近いほど、現実の世界に根ざしたものにすべきだということです

[注]その特撮の水準を示す一例を下に掲げる。これは撮影前の絵コンテだが、この イラストがそのまま映像になっているのが凄イ。特にコングの足にご注目を。コングは恐竜達と戦って崖を落下しながらも、愛するアン・ダロウを左足でシッカリと掴んでいるのである!
(コングの奮闘シーン)


(ジャズ評論家としても一流)

「量質転化」の法則(発見者:平岡正明)

量が、質だ。

[解釈] 異能派評論家・平岡正明の名言。質量不変の法則、ならぬ、量質転化の法則、である。量より質、という俗諺 を逆手にとって、膨大な‘量’の集積は、ついに‘質’に昇華するのだ、と大胆に主張する。その真偽のほどは定かではないが、平岡の語勢に 思わず納得したくなるから不思議。

[注] 平岡には独特の名言癖があり、以下にその歯切れの良い人生裁断の例を幾つか。

  • 全ての感情を持つことは、常に絶対的に正しい。
  • 認識は3秒有ればいいのである。
  • 女は、少女から女になるとき河を渡る。

 特に2番目の名言については、畏友・五木寛之の平岡評――「思想に必要なものはスピードだが、平岡はこの稀有の資質を身につけてい る」――と見事に符合している。なお平岡は、前掲の山田風太郎について、再評価のきっかけとなる卓抜な忍法 帖論を逸早く発表(「対忍法帖自己批判」 初出は昭和46年)、今日の山風ブームの先駆けとなった。やはり、思考スピードの人、なのである。


歴史衰亡の法則(発見者:F.L.ポラック)

歴史は下方へ収斂する。

[解釈] 未来学の泰斗・ポラックの歴史観。彼は先人たちの歴史観を比較検討して、このユニークな悲観的歴史観を 確立したが、その比較の方法は、何と一筆書き。単純な直線と曲線の組み合わせにより偉大な思想を表現しよう、という覚悟が宜しい


@ヘーゲル  Aシュペングラー Bトインビー

 ここで@の図は、既述の正・反・合の弁証法的発展を、Aの図は『西洋の没落』の著者のそれらしく‘没落的’歴史観を、そしてBの図 は‘三拍子半’のリズムで歴史が動いていく、というトインビーの主張を、各々表わしている。そして、ABの図で最後が共に下方へ向か う点にもご注目を。彼ら以外の歴史家たち(ヴィーコ、サン・シモン、アウグスティヌス、ティヤール・ド・シャルダン等)の歴史観も、 一筆で書けば同様に下方に向かって収斂して行くのだというのが、ポラックの主張なのである。
 これは、ヘーゲルやマルクスの楽観的歴史観にも拘わらず、人類は遂に衰亡を免れ得ない、ということであろうか。そう思うと、何やら 哀しいものがある。


(翻訳書表紙)
「歴史の方程式」の法則(発見者:M.ブキャナン、今野紀雄他)

歴史は「冪乗(べきじょう)則」に従う。

[解釈] 物理学、生物学といった自然科学に加え、経済学や歴史学といった人文系学問に至るまで、その全てに共通する法則を探し出すこと――これこそが太古から現代に至るまでの科学者たち共通の夢ではなかったか。そして、その究極の法則こそ上記「冪乗則」なのだ、と‘複雑系’で名高いサンタフェ研究所の科学者達は宣うのである。
 ここで、聞き慣れぬ「冪乗」という言葉を解説すれば、「冪乗則」とは代数学で言う「
縦軸の値が横軸の値の何乗かに(反)比例しているような曲線」の意。反比例の場合を数式で示せば、
   
Y=C/Xn (Yは度数、Cはある定数、Xは変動幅、nは乗数)
となり、この数式を物理学で扱う
地震の頻度とエネルギー」に置き換えれば、
  
 地震の頻度=1/(地震のエネルギー) 
という法則が成り立つことになる。すなわち、エネルギーが2倍の地震の頻度は、1/2=1/4 となる理屈(この“地震の頻度と規模”の法則を、発見者の名をとって「グーテンベルク=リヒターの法則」という)。現実世界では物事は直線的にスンナリ進まず、言わば「大幅に振れて」生じる、ということでありマス。
(コッホ曲線)

 なおここで注目すべきは、「冪乗則」に従う現象は“自己相似性”がある、という点。株価の変動は、1日でも1年でも同じ相似形を示し、海岸線は微視的に見た形状と巨視的に見た形状が似通う場合がある。すなわち、自然は時間・空間において、自らを模倣するのである(この、拡大しても縮めても同じ形が現われる図形を「フラクタル」といい、マンデルブロ集合コッホ曲線がその代表例)。
 そしてその対象となる「系」では
 
@外部から加えられる作用がゆっくりであること
 
A個々の要素が相互に作用していること
の2点が守られていなければならぬ(今や流行語となった
「複雑系」とは、一般的にはこの「系」のことを指す)。そして自然界は、この種の「系」で満ち満ちているばかりか、そうした状態に自らを仕向けさえするのである。
 この、自ら進んで不安定な状態になることを「自己組織的臨界状態」と呼び、その結果
「カオス」が生ずることになる。歴史においては「不調和」が「革命」を産み「激しい変動状態」が「戦争」の原因となるが、これらは何れも「臨界状態」(これを「Critical」という)が「カオス」を引き起こしているのである。
 そしてこの一連の流れは様々な世界で認められ、自然界では「絶滅の頻度と規模」が、経済界では「株価の変動の頻度と変動幅」が同じ傾向を示し、さらには歴史の世界でも「戦争の数と戦死者の規模」が「冪乗則」に則っているとされる。特に最後の、戦争がその規模の大小に関わらず相応の(「スケール不変の」)犠牲を強いるという指摘は、先人の箴言を悲しく裏付けることになるだろう。すなわち、――「歴史は繰り返す」。

(最新翻訳書表紙)
[注] この「冪乗則」について興味深い点は、既に述べた有名な法則の“裏返し”といった側面があること。
 その法則とは『80対20の法則』であり、一部(例えば2割)の人間に富が集中して、全体の富の大部分(例えば8割)を占めるのは、経済界における「冪乗則」の見事な応用例と言える。さらに昨今は、富を僅かしか持たぬ“大多数の人々”に着目して、その人たちの実態を細かく分析しようという考えも出てきている。いわゆる「ロングテールの法則」であり、コンピューターの発達がその膨大な分析を可能にしたと言えよう。
 また在野の思想家・吉本隆明の精神にも、このテの「冪乗則」の考え方が潜んでいる。人は完璧でなくとも、物事のツボさえ押さえておけば、後は自然界が「大幅に振れて」残りをカバーしてくれる。後期作品の題名
「だいたいでいいじゃない」は、そうした吉本のユル〜イ“決意表明”でもあろうか。
 なお「冪乗則」が“万能”でない点についてもご留意を。
 「地震は起こり始めたとき、自分がどれほど大きくなるかを知らない」(クリストファー・シュルツ)のであり、従って「M6の地震が何回目に起こるのかは予測不可能」(増田直紀の「本書解説」より) ということ。「冪乗則」は、過去の事象を解明しつつあるが、未来は未だ「カオス」
の彼方にある。