(「Romeo+Juliet」)

対人魅力の法則(発見者:フェスティンガー、ライアンズ、ウォルター&ダイオン、バーン&ネルソン、モアランド等)

人が他者に対して好意を抱くようになる条件には、 @他者要因(他者の性格、身体的魅力)、A相互作用要因(@近接性、A熟知性、B類似性、C相互補完性、D報酬性)、B自己要因(自分の性格や感情状態)があげられる。

[解釈] 対人認知の大きなテーマである“人はどのような他者に好意を抱くのか”については、諸説紛々であるが、一応のまとめを掲げてみた。
 まず@他者要因とは、要するに
“中身より外見”ということ。デートに誘いたい相手は「背の高い美人」であり(E.ウオルターの実験)、5歳から10歳の子供は「美しい人ほど人柄も素晴らしい」と判断する(K.ダイオンの実験)のである。これは「ある面で望ましい特性を持っていると、その他の面でも望ましい特性を持っている」という認知の歪み(「光背効果」)と言うことができる。
 次のA相互作用要因には、いくつかの側面がある。
@近接性
とは、“近くにいる(空間的にコストがかからず会いやすい)人ほど親しくなりやすい”ということ(フェスティンガーの「アパートの住人の実験」)。
A熟知性とは、“ある刺激を見聞きする機会が多いほど、その刺激への選好性が高まる”ということ(これを
「単純接触効果」とも言う。R.J.モアランドR.B.ライアンズの「女子学生への男子学生の写真提示の実験」)。近代以前の日本には“惚れるより慣れろ”という諺があり、一度も新郎に会わないまま嫁入りする娘に対し「慣れてしまえば愛情は後から湧く」と教えたというが、、これもそうした心の機微をを踏まえたアドバイスだったと思われる。ただしこれには例外があり、“第一印象が悪い場合は、その繰り返しはむしろ不快感を高める結果となる”(W.スワップ)のでご注意を。
B類似性とは俗に言う“類は友を呼ぶ”ということ。理屈っぽく言えば、“類似性が好意を引き起こす”(
「類似性-魅力仮説」バーンネルソンの「態度の類似性と対人魅力」の実験)となり、これは、自分と同じ意見の人がいると分かれば、自分の考えの妥当性が確認できるからである(「合意的妥当化」→好みや価値観の似ている相手とは快適な均衡状態が維持できる、という意味では「認知的均衡」とも捉えられるし、自分の能力や意見を他人と比較することによって評価していく、という意味では『社会比較過程理論』で説明することもできるまた結婚している夫婦や交際中のカップルが、さまざまな面で似ていることが多い「釣り合い仮説」)のも、この説を裏付けていると言えよう。なお、@の「近接性」との比較で言えば、大学の寮に住む学生たちは、初期は部屋の近い者に魅力を感じる(すなわち「近接性」)が、次第に類似した態度を持つ者同士が親密になる(すなわち「類似性」)ことが調査により明らかにされていると、という(T.M.ニューカム)。要するに、物理的距離より精神的距離の方が大事、ということ。言われてみれば当たり前ですが…。
 これに対し、C相互補完性は、対人魅力の要因として前記のB類似性だけでは不十分で、自分の不足分を補ってくれる(「欲求の満足」)ことが重要だとする説である(R.F.ウィンチ)。確かに長期的な人間関係には、こうした相補性が必要かも知れないですナ。
D報酬性は、“自分を褒めてくれる人を好きになる”ということ(E.バーシェイド「好意の返報性」)。これは“自信を失っているときに好意を示した人に強い魅力を感じる”(ウォルスター「好意の自尊理論」)ということでもある。
最後のB自己要因とは、自分を取り巻く状況によって感情が増幅する、ということ
親の反対によって恋愛感情が盛り上がった「ロミオとジュリエット」がその典型であるが、これは妨害の発生による興奮状態を恋愛による興奮状態と捉えることから発生する(R.ドリスゴール)とされる(→この点については、前掲のシャクター 「情動2要因理論」で詳述しています)。
社会心理学の名著
[注] 社会心理学の解説本は数々あれど、編者が一番好感を抱いたのが、『マインドウオッチング』なる一冊。
 現代屈指の心理学者ハンス・アイゼンクが、同じ心理学者の 息子マイケルの協力を得てまとめた実証的、かつ
視野の広い名著であった。


(こうなるのが理想)

ダイエットの法則(発見者:中村紘一郎、田上幹樹他)

カロリーを摂らなければ、痩せられる。

[解釈] 数多いダイエット本を読み漁った結論が、これ(それらの本に出てきた変身体験談の中で「私と肥満 は姉妹のようでした」という告白が泣かせた)。『太った奴ほどよく痩せる』(久保田登監修)、『水を出せばみるみる痩せる』(西田 達弘著)、『もっと美しく痩せられる』(川崎亨二著)等一般の痩身本は、無駄なエネルギーの燃焼方法に頁を割くが、こうした‘適度 な運動’は決して痩せるための決め手ではない。それよりも、肥満のもととなるカロリー摂取を制限すること、これこそがダイエットの 王道なのである。以下、そのポイントをあげれば――
 @1グラム痩せるのに10kcal(正確には7〜9kcal)不足すればよい。ストックとフローの考えを使えば、1ストック(=1グラム)は1桁上のフロー (=10kcal)に転化する、ということ。
 A1日に必要なカロリーは、約2000kcal。従って、それより500kcal不足すれば、50グラムの減量に通ずる。
 Bご飯1杯は160kcalで、これはジュース1本130kcal、砂糖4杯160kcalとほぼ同じ。
 以上から、1日にご飯1杯、ジュース1本、砂糖4杯分を節制すれば、一カ月で1キロ、無理なく痩せられる(筈である)。

[注] この肥満が過ぎると糖尿病になるが、その症状は@肥満により血液中の糖度が上がりインスリ ンの分泌低下&[糖を体内に取り込めない]インスリン抵抗性大→A糖が尿に排出し多尿・喉の渇き・空腹感(さらに、激痩セ)→B糖が蛋白と 結合してコラーゲン繊維が糖化し、最小血管障害から網膜症や高血圧発症、という経過を辿るとされる。
 そして、その予防には何よりも摂取カロリーのコントロールが大事で、一日の摂取量を前記2000Kcalを下回るカロリー(例えば1800kcal) に抑えることにより、血糖値110未満かつHbAic(糖化ヘモグロビン)6未満、を達成するよう努めることが肝要である。そうした献立の一例を 掲げれば(各食事毎に「/」で区切ってカロリーの高い順に表示)――

【朝】ご飯1杯・納豆・味噌汁/トースト1枚・りんご1個
【昼】カレーライス=焼きそば=ミックス・サンド=チャーハン/ミ ート・スパゲッティ=焼き肉定食/ざるそば
【夜】ご飯1杯・魚・野菜・味噌汁
【食後】バナナ1本・リンゴ半個

 という具合。因みに、ビールは小ジョッキ1杯でご飯小盛一杯に相当し、付き合い以外はお止めになった方がよろしかろう。(とは言って も、こうした献立及び禁酒を続けるのは、なかなかに至難の業。それに、こうした食事療法によりストレスが溜まると、大量のアドレナリ ンが分泌。その結果インスリンの分泌が抑制されて、かえって血糖値が上がったりするんだそうな。まこと、手強い「生活習慣病」なのであっ た。)


脱力の法則(発見者:ひすいこたろう)            

人は、力が入っていないときに、最大の能力が発揮される。

[解釈] 天才(自称)コピーライターひすい氏が、イチロー選手のケガをしない秘訣から発見した逆説的な法則。
 外野を走っていてフェンスにぶつかりそうになったとき、イチロー選手は「逆に力を抜く」という。これはスポーツ全般にも応用でき、柔道でも空手でもゴルフでも、力を抜くことができれば一流、ということ、赤ちゃんが高いところから落ちてもケガをしないのも、この「脱力」のためなのである。
 この法則は仕事でも使え、「肩の力を抜くこと」を覚えれば、大事な仕事も半分成功したも同然、といえよう。
                    

                                      


(1932-86)

タルコフスキーの「自然は人工的」の法則(発見者:タルコフスキー

一見自然に見えるようにするには、巧みに巧む必要がある。

[解釈] と言っていたかどうか、実は知らないのだが、 晩年の傑作「ノスタルジア」 の冒頭シーンなどを観ると、その感が深い。

「ノスタルジア」 ’83 冒頭のシーン

すなわち、美少女とその弟が朝霧の中に立ち尽くし、霧の向こうにはうっすらと納屋と白馬、そして満月が浮かんでいるシーン。 この懐かしいような光景が、実は全て周到な演出(月は吊るされ、霧は煙を炊いたもの)だったとは! 黒澤明「椿三十郎」で、家老宅の庭の椿を(白黒映画で)赤く見えるように全て黒く塗った、というエピソードを思い出す。CGのない時代、東西映画界の巨匠は、画面があくまで“自然”に見えるよう、手間を惜しまず巧みに巧んだのである。
なお編者は、彼の作品を観ると睡くなる(例えば
「ストーカー」の、 禁止地域に赴くトロッコのゴトンゴトンという音で睡〜くなる)のだが、 これは他のタルコフスキー愛好家もそうらしく、マンガ家藤原カムイも詩人 諏訪優も、エッセイスト永千恵 も監督押井守も、みな異口同音に「睡〜い」を連発しているのである。これは、タルコフスキーの映像美に向かうのが、殆ど自然(といっても“巧まれた自然”だが)に対峙するに等しいためであろうか。

[注] タルコフスキー の自伝的映画「鏡」を、黒澤 が「こんなわかりやすい映画はない」と評した話は有名。この両巨匠、やはりどこか相通ずるところがあるんでしょうナ。
                    
                                      


チェスタトン1874- 1936

チェスタトンの「逆説」の法則 (発見者:G.K.チェスタトン、高山宏)

実生活は部分的には芸術的だが全体としてはそうではない。芸術作品の破片の寄せ集めのようなものが実生活である

[解釈]
 その名も『ポンド氏の逆説』で開陳されるポンド氏 (つまりチェスタトン)の、 実生活 芸術の間に横たわる「逆説」についての説明。 なお、このポンド氏の言葉はさらに「だから、万事がきちっとまとまっていて、しっくりしないものが何もないような時、われわれはそれがこしらえものじゃないかと疑(うたぐ)るのです」と続く。 つまり 現実とは、無数の心理的・身体的・物理的条件のもとに様々な姿を見せる手強い代物であり、芸術家が考えるような秩序だったものではない、という認識である。
これを、同じ逆説を扱った
前掲「『ゼノンの逆説』の法則」 に当て嵌めれば、芸術家アキレスであり、現実は“永遠に到達し得ない”ということになるだろう。そして、芸術に代表される人間の営為が冷厳たる現実の前で立ちすくむ時、 人は「逆説だ」とつぶやき、思考を停止させるのである。
だがそのとき、思考を停止させずに「逆説」について考え続けるどうなるのか―
そこらあたりの事情を見事に指摘したのが、博覧強記のエッセイスト・高山宏氏の推理小説論『殺す・集める・読む』である。
『殺す・集める・読む』

氏はこの書の中で“チェスタトンの逆説“に一章を割き、「現実を、その曖昧、その多相性において受け入れる境位こそパラドキシスト(←つまり、チェスタトンたちの眼目とするところであった」(「病患の図表」)と喝破する。「逆説」を克服するには、現実の“曖昧・多相性”をそのまま受け入れることが何よりも肝要なのである。

[注] チェスタトンは「逆説」を「人目を引くために頭立(さかだ)ちしている真理」と定義するが、以下、特に編者を唸らせた“真理”を「ブラウン神父」、「ポンド氏」から一つずつ掲げておく。
・「一枚の枯葉を隠したいと思う者は、枯れ木の山をこいしらえあげるだろう。(中略)死体を隠したいと思う者は、死体の山を築いてそれを隠すだろうよ」(『ブラウン神父の童心』中の「折れた剣」で明かされる空前絶後の犯罪動機)
・「恋は時間を要しない。しかし友情は常に時間を必要とする。夜半過ぎにも及ぶ多くの時間を」(『ポンド氏の逆説』中の「ガーガン大尉の犯罪」でホンド氏が述べる納得の心理分析)


吉田兼好1283- 1935

徒然草の「狂人」の法則 (発見者:吉田兼好、丸谷才一)

狂人のまねとて大路を走らば、則ち狂人なり(狂人のまねだといって大路を走ったら、そのまま狂人だ)

[解釈]
 日本文学古典中の古典「徒然草」を学生時代に読んだ時、もっとも感銘を受けた一節がこれ。
狂気の振る舞いをし、自ら狂人の真似をしているだけ、と嘯(うそぶ)く者に、「そういう人こそが狂人なのだ」と鉄槌を下す兼好の舌鋒の鋭どさよ。
充分に狂気を意識しても実際に行動に出せば、それ即ち狂人なのだ、という指摘は、眼からウロコでありました。


[注]ところで、これだけ感銘を受けたのに、いざ、どこの段だったのかを探すと、これがなかなか見つからないんですナ。口語訳を全段読み直し、バロン吉本の漫画化本までも探してみたが、見つからずじまい。気になったまま数十年が過ぎたが、このたびようやく発見の運びとなりました。きっかけは、
丸谷才一先生の好評エッセイシリーズの一冊「綾とりで天の川」を読んだこと。その中に「吉田兼好論」の項があり、「『徒然草』は呑気な話がたくさん入っている本」だが、一方で「生活美学があったり、人生論があったりする」として、この「狂人」についての箇所を「八十五段」と紹介してくれたのです。ではその「八十五段」を、丸谷流に訳せば以下の通り。
(『『綾とりで天の川』)

愚人は賢人を憎み、あれは偽善者だなんて言ふけれど、でもそうかしら。狂人の真似をしてメイン・ストリートを走れば狂人である。(中略)偽ってでも賢人の真似をすれば賢人である
そーか、この一節は文章途中の例示に過ぎなかったんだ!と記憶の不確かさに我ながらボーゼンとしたのでありました


疲れの法則(発見者:吉竹博)

@少し疲れたら、少し休め。 A疲労回復のためには今まで活動しなかった部分を活動させよ。

[解釈] 健康心理学者・吉竹博士の提唱する2大法則。‘疲れ’という正体不明の病気(精神医学では、疲労と鬱病 の症状は同じ、という定説有り)に、一つの照明を当て得た、という意味で貴重な発見であった。
 @は、長い作業時間の後、まとまった休息を入れるより、作業時間を短縮して休息回数を多くした方が能率が上がる、ということ。これは 健康管理の面からも言え、アメリカのコーヒー・ブレイク、イギリスのティー・タイムなどはそういった生活の知恵だそうな。
 Aは、例えば右手の疲労を回復させるには、右手を休ませておくだけでなく左手を動かした方が効果が上がる、ということ。今世紀初めロシ アの生理学者のセチェノフという人が発見した法則で、名付けて「アクティブ・レストの法則」と言う。頭が疲れているとき貧乏揺すりをする、 というのもその下世話な一例と言えよう。

(1889-1960)
[注] 我が国を代表する哲学者・和辻哲郎は、その名著『風土』で「四季おりおりの季節の 変化が著しいように、日本の人間(中略)は大陸的な落ちつきを持たないとともに、疲れやすく持久性を持たない」と、日本人の疲れやすさ を解説している。
 なお、こうした‘疲れ’を表現した代表的文章として、辻邦生の短編から次の一節を掲げたい――「ひどく疲れていた。疲れていたという 以外に、私は何を感じられたろう。」(『見知らぬ町にて』冒頭の一節) 故郷を遠く離れたエトランゼの‘旅の疲れ’を表現して、鮮やかである。




哲学・エッセンス

(このコーナーでは、古今の大哲学者の学説の要諦を無謀・・にも数十行で概説してしまいます。なお、全く編者の手に 負えなかった難解な哲学への理解のキッカケは、市井の思想家・木原武一氏の「哲学からのメッセージ」(新潮選書)という明快な解説書 に拠るところ大であります。興味のある方は是非ご一読を。)

◆Kant,Imanuel(カント、イマヌエル) 1724-1804 ドイツ

◎遠くスコットランドの血を引く馬具商人の息子。母は敬虔派教徒。プロイセンの東北国境に近い「ケーニヒスベルグ」生まれ。この都市から 1マイルと出たことがないことから、「ケーニヒスベルグの哲学者」と呼ばれる。身長157センチ。頭部が大きく、胸部は扁平。 髪は金髪で、その 目は天の精気を帯びる(ヤッハマン)と称された。
 その哲学のエッセンスは(取り敢えず)以下の4つに要約されよう。

 @先験的感性論(この発見をカントは、「コペルニクス的転回」と呼んだ。)…認識とは、感性を通じて得た情報(これを「質量」と呼ぶ) を悟性が 「カテゴリー」というふるいにかけることによって、対象が何であるか解ること、である。――お解りかな? つまり、外界の事物は、人がそれを認 識して初めて存在となる、ということ。ここでカテゴリーとは、経験を越えた先験的なもので、量・質・関係など合わせて12個有るそうな。
 A理性の二律背反…世の中には、正しいと同時に間違っている(これを「正命題」と「反対命題」がともに正しい、と言う)ことが4つ有 る。即ち、
 @時間的・空間的無限性 A物質の構造 B 自由 C 神の存在
である。これを現代哲学風に言い換えれば「語り得ぬものについては、沈黙しなけれ ばならぬ」 (ヴィトゲンシュタイン) ということになろうか。ここにカントは、絶対の自信を置いていた自らの理性の限界を知るのであ る。
 B「格律」(自分の意思決定にあたっての、主観的規則)…カントは、人間としてどうしてもせざるを得ない無条件の命令(即ち「定言的 命令」 或いは道徳律、と言ってもよい)の存在、を信ずる。そして実践的法則として「汝の意志の格律が、同時に普遍的立法の原理として 妥当するように行え」と説くのである。これ即ち、孔子の言う「心の欲するところに従えども規(のり)を越えず」と同じ。
 C「人間とは自己を啓蒙開発(Kultur、つまりカルチャー)すべき存在である」…カントは「およそ被造物に内在するいっさいの自 然的要素はいつかは各々の目的に適合しつつ余すところなく開発されるように予め定められている」と宣言する。この美しい決定論のため、 カントは大著『判断力批判』を書いたのである。時にカント、66歳。

§

◆Kierkegaard,Sφren(キルケゴール、セーレン) 1813-1855 デンマーク

◎憂愁の哲学者にして、現代実存主義の祖。厳格かつ反キリスト的父親の下で育ち、その反撥から真のキリスト者を目指す。ために最愛の女 性・レギーネとの婚約を破棄、また旧来の陋習にあぐらをかいた教会に挑戦し、当時の大衆から激しい非難を浴びる。その闘争の最中路上 で倒れ、42才の短い生涯を終えた。そのとき、彼が引き継いだ莫大な遺産は、全て使い果たされていた、と言う。

●主著『死にいたる病』冒頭の、あまりに有名な一節――「自己とは、一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である」 この一 見無意味な同義語反復に、キルケゴールの切実な声を聞き取ること、これが評者の記念すべき「哲学体験」の最初であった。分かりやすく するため、英語訳を掲げる。

 The self is a relation which relates itself to its own self.

 即ち、自己とは、精神的な働きかけである、とキルケゴールは言う。そして、その働きかけとは、精神的働きがその働き自身に働きかけるとい うことである。ここで、その働きかけは、本来の自己になる意志を持つ筈である―― この「筈である」という言葉には、確かに論理の飛躍がある が、これこそがキルケゴールの祈りにも似た論理、なのである。そして、‘働きに働きかける’と言うパラドキシカルな表現によって、「自己」 という定義し難いものを、かろうじて自律的に発生させている点に、この文章の工夫がある。

§

◆Nietzsche,Friedrich(ニーチェ、フリードリヒ) 1844-1900 ドイツ

◎「ダーウィンの子供、ビスマルクの兄弟」と称される19世紀末の「超人」哲学者。45歳のとき発狂。友人オ−ヴェルベックは「ひじ でピアノを叩くニーチェを彼の下宿に見出す。以後、母と妹の看護の下10年間生き永らえて死去。狂気の縁で、妹・リサベータ に語りか ける彼の言葉は我々の胸を打つ。「リサベータ、なぜ泣くんだ。我々は幸福じゃないのかい」 或いは「あゝ、自分もまたいい本を書いた」。

 @エゴイズム…その独特のエゴイズム観は、まず己の才能を信ずることから始まるが、その場合重要なのは、才能を「繊細に」聞き分け る耳が必要、だということ。生半可な覚悟では、真のエゴイストにはなれないのである。
 そして何よりも、自分を愛し自分を信頼することが肝要だ、と彼は言う。自らの生を否定するような「ニヒリズム」は、たとえそれが 「神」と名づけられていても、或いは「隣人愛」という形を取っていても、否定されねばならない。
  そしてあるがままの自分に満足し「必然的にある」ものを愛すること(それは「運命愛」amor fati と呼ばれる)こそが重要であり 「理想主義」などは単なる現実逃避にすぎない、と断じるのである。
 A永劫回帰…ニーチェは「無限の時間の中では、有限の存在(即ち自らの必然的なあり方、の意)は同一状態を反復する」と言う。これ を、「無限」という概念は全てを可能にする、と言い換えても良い。かくて、有限の自己は、無限の中で永劫回帰する。
 B超人、あるいは力への意志…彼にとって生とは、「力の成長形式の表現」である。このことは簡単そうに見えて、決して容易ではない。 何故なら「力」とは、自分を充分に支配し思いのままに動かす「力」を意味し、このために人は、強靭なエゴイストにならねばならないか らである。

 [注] @の「運命愛」について、現代日本の異端哲学者・中島義道は「私に起こったことすべてを‘私の意志がもたらしたもの’として捉えな おすことだ」と解釈する。いま孤独に陥っている人も、それが実は自らの所業により選び取られたものだ、と考えること。さすれば、砂を 噛むような孤独も少しは癒されるのではないか、と中島は(そしてニーチェも)言うのである。
 またAの「永劫回帰」については、現存ヨーロッパ最大の作家M.クンデラの『存在の耐えられない軽さ』冒頭の考察が示唆的である。 「われわれの人生の一瞬一瞬が限りなく繰り返されるのであれば、われわれは十字架の上のキリストのように永遠というものに釘づけに されていることになる」と、クンデラは言う。従ってそういう世界では、我々の動き一つ一つに耐え難い責任の重さがあり、これこそニー チェが人生を「重い荷物(das schwerste Gewicht)」と呼んだ所以、なのである(そして究極の恋愛小説『存在の耐えられない軽さ』は、そ の重さを選ぶべきか否かを問いかける究極の哲学小説、でもある)。

§

◆Hegel,Georg Wilhelm Friedrich(ヘーゲル、ジョージ W.フリードリヒ)1770-1831 ドイツ

◎学生時代の評価は「才能のある人格者だが哲学には何ら才能がない」というもの。友人たちは、生気がなく土色で締まりのない顔つきの 彼を「老人」と呼び、後の大哲学者を予想したものは一人も無かった。しかし後年、その名声は「ゲーテが文学界を支配し、ベートーベンが音 楽界を支配した如く、ヘーゲルは哲学界を支配した」と評された。身長約167センチ。41歳で21歳年下の貴族の娘と結婚、「わたし の地上の目的は達成した」とまで手紙に書く喜びぶりであった。ベルリンにコレラが流行した時、いの一番に感染して僅か1日の患いで( 多分あまり苦しまずに)死去。哲学者にしては、幸福な人生である。

 @絶対知…ヘーゲルにとって「自分自身を自分の世界として、また世界を自分自身として意識する」ことが、まず重要。そして「世界と 自分について完全に知る]こと、即ち「絶対知」の状態へ至ることが、人生という旅の目的である、と説く。
 A理性の支配…次にヘーゲルは「自由が理性の本質であり、歴史は自由の意識の拡大だ」と言う。かくて「歴史や世界は理性によって支 配され、『意味』がふんだんに注ぎ込まれる」のである。
 B客観と自己…何かを知る、ということは、常にそこに「自分自身を見出す」ことであり、同時に自分自身の中にも、その何かを発見す ることである。言い換えれば「客観を我々の最も内的な自己である『概念』(モノゴトノ本来ノスガタ)へと還元すること」、これが肝心 だ、とヘーゲルは言う。

 以上@〜Bを大胆にまとめれば「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」ということ。そして、この 「理性と現実は一致すべきである」というのが、ヘーゲルの断固たる主張なのである。
 最後に彼の専売特許である「弁証法(Dialektik)」について一言。それは「A(例えば、生)を考えることは、同時にAでな いもの、B(例えば、死)を考える」という思考法である。それらは「流動的な本性」によって「有機的に統一」され、これこそが真の理 性の実現、なのである。この精神の動きをヘーゲルは「風の運動が海を腐敗から防ぐ」という美しいイメージで表現する。これぞ、哲学が 詩に昇華した見事な一瞬。


(『探偵術マニュアル』)

「敵」の法則 (発見者:J.ベリー、葉室燐 )

自分の敵として行動する人間を見つけることが、おのれを知る最良の方法である。

[解釈]
 J.ベリーは、2011年「週刊文春」ベストミステリー第9位の『探偵術マニュアル』の著者この法則は、その第14章「強敵」に添えられたエピグラフである。
雨が降り続けるその世界は、さながらモノトーンのオーソン・ウェルズの映画の如し。“まるで水族館のような名も無い都会(まち)に、悪夢の追跡劇が展開する。一見、幻想ミステリ風だが、随所にリアルな箴言が鏤(ちりば)められ、編者もその年の第3位に推した逸品であった(その時の編者の推薦キャッチは、「モーション・ピクチャのごとき大人のメルヘン!」)。
で、そうしたリアルな箴言の一つがこれ。
自分の周囲の誰かを敵とみなす時、実はその行為自体が
自らの度量を計る物差しとなる、ということ。意地悪く言えば、    あなたのレベルはせいぜいその敵と同程度なのだ、と宣告されるのである (前掲『逆転の法則』のチャーチルの項参照)。
では我々がその“敵のレベル”から脱する方法は、あるのか? 残念ながらその解答は「探偵術マニュアル」には記されていないが、私見では「
相手を敵とみなさず(味方として)許容してしまえ」というパラドックスあたりに、そのヒントが潜んでいる気がする。好悪を超えた包容力こそが、自らを持する秘訣なのではないか。
その第8章「監視について」に“探偵は見ていないようで見ていること、目をむけていないときも見ていることが必要だ”という一節があるが、こうした逆説に接するとき、“敵ではあっても敵としないと“いう自己矛盾した心理もあながち的外れではないのでは、と思うのである。

[注] 上に述べたのは、会社で言えば同僚・部下に対峙した時の心構えと言えるが、では、上司が「敵」となった時はどうすべきか。時に遭遇するこの切実な問題については、 いったいどう考えたらよいだろうか。
その一つの解答例が、時代小説作家・葉室燐の直木賞受賞作『蜩の記』にあると思われる。

(『蜩の記』)

藩主から10年後の切腹を命じられながら、 幽閉先で粛々と家譜編纂に携わる主人公・戸田秋谷。彼は自らの思いを次のように語る―「忠義とは、主君が家臣を信じればこそ尽くせるものだ。されば、主君が疑いを抱いておられるのなら。家臣は、その疑いが解けるのを待つしかない(中略)疑いは、疑う心があって生じるものだ。弁明しても心を変えることはできぬ。心を変えることができるのは、心をもってだけだ。」
主君(=上司)に信じてもらえぬ者は、自らに恥じぬ行いを貫き、藩主の心が変わるのを待つしかない(秋谷の妻・織江は、「夫は何があろうと人に恥じるようなことは決してしないと信じております」と断言する)。そして主君の心が変わるかどうか、はまさに天の定めで、彼はその定めを甘受するのである。
つまり、組織にあって上司の信頼を損ねるというのは、それほどに重い桎梏(しっこく)であり、後は運命が開けるまで自らを律するしかない、ということでありましょうか。


(お薦めの専門辞典)

「同時に二つのことをする」法則 (発見者:E.C.チェリー)

人は、非常に似通った二つの活動を同時に行うのは困難である。ただし、集中的・持続的な練習により、同時に二つのことを行う能力を高めることは可能である。

[解釈]
 社会心理学の法則のひとつ。その発見はまず、マサチューセッツ工科大学・エレクトロニクス研究所勤務の技術者E.C.チェリーが、カクテル・パーティーでの話し声に注目したことから始まる(なお、チェリーが心理学者でなく技術者である点にもご注目を。現代の心理学は、かくも“学際的”なのである)。
 カクテル・パーティーではいくつかの話が飛び交うが、我々はそのうちのひとつの話を集中して聞くことができる。そして、ひとつの話が繰り返される(これを「
追唱 シャドウイングという)とき、それ以外の話は、驚くほど無視されてしまう。このことは逆に、“我々は同時にひとつのことにしか注意を向けられない”と言い換えることもできる。(E.C.チェリー「カクテル・パーティー効果」)。
これは日頃、“
たくさんのことを同時にこなそうとして失敗する”我々の実感とも一致している。ただ、ことはそれほど単純ではなく、視覚と聴覚は意外と同時に使い分けられることも知られている(これは、各々の感覚が脳の異なる部位に関わるため、とされる)。
 また、“
集中的・持続的な練習によりひとつのことに習熟すると、同時に他のことをすることができるようになる”ことも発見されている(A.ナイサーE.スペルケによる口述筆記の実験)。運転歴の長いドライヴァーが運転しながら話をしたり、熟練したタイピストがタイプしながら耳に入る文章を暗記できるのも、そうした法則の具体例である。これは、熟練によりわずかな注意力でひとつのことができるので、他の活動も十分にこなす余力があるため、と説明される。


(アッシュ 1907-)

「同調と服従」の法則 (発見者:S.E.アッシュ、S.ミルグラム)

人は、他者が全て同意見の場合、その意見に合致するように自らを変化させる(=「同調」)。また、権威者による命令などの社会的圧力により、容易に自らの意志に反した行動をとる(=「服従」)。

[解釈]
 社会心理学の有名な2法則。なお「同調」と「服従」は類似概念だが、「同調」は従うことが強制でない点が「服従」とは異なるので注意。
 この
「同調」についての有名な研究が、 1951年のアッシュ同調実験である。これは、男子学生8人を1つのテーブルに並んで座らせ、1本の標準線分に対し3本の比較 線分を提示して同じ長さの線分を選ばせる、という単純な実験であった。実は1人を除いて他の学生は全てサクラで、彼らに間違った解答をさせると 、なんとそれにつられた被験者の誤答率は32%に達した、という(なお、サクラの数は多いからといって影響はなく、3人以上になると、 ほぼ同じ誤答率のまま推移している)。ただし、サクラの中に1人でも正答者を入れると、誤答率は1/4に減少した。すなわち、人は1人でも味方がい れば、集団に立ち向かうことができる、ということ。一方で、その同調者が次回の実験で再び誤答すると、被験者の同調への抵抗は殆ど失われてしまった、とも言う。人は、裏切りにもまた敏感なのである。
ミルグラム1933-84

 次の
「服従」実験は(ミルグラムがユダヤ系アメリカ人であることから)、 ヒットラーのユダヤに対する残虐行為が実はどんな人間も持つ性向である、という仮説を立証するために行われた。ニューヘブン近住の20歳から50歳のごく一般的な(郵便局員、教師、セールスマン等の)男性が集められ、「罰が暗記学習の向上に有効かを調べる実験」というウソの説明をされる。そして被験者を「先生」役にし、サクラを罰を受ける「生徒」役に仕立てた。被験者は別室に控えさせられ、サクラの「生徒」が間違えるたびに監督者より電圧を上げて電気ショックを与えるよう命じられる。そのレベルは、195ボルトで「非常に強いショック」、315ボルトで「極度のショック」、そして435ボルト以上では「×××(つまり致死レベル!)」と表示されていた。実験前の予想で、心理学者は195ボルトまでにほとんどの被験者が拒否するだろうとし、また学生たちは最後(450ボルト)までスイッチを押すのは100人中3人以下だろうと考えた。ところが実際の実験結果は、450ボルトの最後までスイッチを押し続けたのは、40人中26人の65%と、予想をはるかに上回ったのである。この結果に衝撃を受けたミルグラムは、監督者の服装、実験の場所等、条件を色々変えて繰り返し実験を行ったが、 「服従」を低くする条件は見つからなかった、という。人間は、ヒットラー政権下のドイツでなくとも、かくも命令に弱いのである (後掲「『役割の内面化』の法則」を参照)。

[注] ドイチェとジェラルドは、上記のような行動が起きる理由として、@人は正しく反応したいと願い、 そのため他者の情報を有用と考える(「情報的影響」)、A他者から好かれたいと願い、そのため規範から逸脱しないよう努める(「規範的影響」)を掲げている(1955年)。 人は、他者から隔絶するより平凡であることを願うのである。


(ひすい氏の著作)

「時は癒す」の法則 (発見者:ひすいこたろう)

悩みは勝手に無くなる。

[解釈]
前掲ひすいこたろう氏の 『名言セラピー 3秒でハッピーになる』に載っている「名言」のひとつ。
1年前の悩みは、思い出せないのが普通。つまり、1年たてば、 どうしようもないような深い悩みも消滅してしまう、ということ。「
時は癒す(Time cures)」のである。
ひすい氏の著作にはこの他にも名言が満載。以下、その典型例を。
・ある現象が起きたとき、脳は、合理的な理屈を勝手に見つけ出そうとする。…「〇〇さん、ありがとう」と30回唱えると、脳は勝手に、〇〇さんへの感謝の理屈を探し出し、感謝の念が湧く。これが、人間関係を円滑にする秘訣となる。
・人が長い人生を振り返って後悔する共通の事柄は、「もっと冒険しておけばよかった」ということである。 …これは、90歳になった人たちの感想。我々はまだ「冒険する」のに晩くない。
・ウツになるには、1日1000回のため息を3ヶ月続ければよい。…幸せになりたければ、その逆、つまり笑えばよい。
・宇宙は、バランスを取る …波の高い所と低い所を相殺すると(海全体では)ゼロになる。巨視的に見れば、宇宙は必ずバランスを取るのである。
マーフィー博士?

・未来から逆算して、現在の行動を決定することが、 成功の秘訣である。 …これは、マーフィーの法則」で言う「成功した自分を想像せよ。さすれば、成功する」に通ずる考え方といえる。

・長生きするタイプの人の共通点は、「友人の数の多さ」である。…これは、前掲「クモの巣構造の法則」に通ずる考え方。喫煙、飲酒、経済状況、ストレスといったことは、人の寿命に、思ったほど大きな影響力を持っていない。
・精神科退院許可の目安は、「いい加減でやめる能力」が回復したか否か、である。 …ウソを他人に(そして、自分にも)つけないようでは、退院できない。
・ライバルを追いかけても、ライバルは超えられない。 …「ライバルは昨日の自分」と考えたとき、成長が始まる。
・ものごとを「ゼロベース(現在やっていることを、もしやってないとしたら、それでもやりたいことか、を自らに問うこと)で考え直せ …「命とは時間」である。無駄なことをしている暇は無い。

そして、興味深かったのは、
「共鳴」についての次の言及。
・自分の凝っていている部分を相手にマッサージすると、自分の凝りが直る。 …これは「共鳴」という現象。幸せになりたかったら、目の前の人を幸せにすれば、「共鳴」によって自分も幸せになる。これは、次の名言にも通ずる。
・縁の有った人を大切にせよ。 …誰かに喜んでもらえば、自らも幸せになれる、ということ。喜ばれるとうれしいのは、人間だけの本性なのである。
そして、この考えの延長線上に次の名言がある。
・「あの人の喜ぶ顔を見たい」と思えば、人はありえないところまで行ける。…「自分のために」では行けるところに限界がある。 遠くまで行くには、無私の心が前提となる。

[注] そして、この本は次の印象的なメッセージで終わる。
あなたがくだらないと思っている今日は、昨日亡くなった人が、何とかして生きたかった、なんとしてでも生きたかった今日なんです