(電脳建築家・坂村氏)

快適生活の法則 (発見者:坂村健)

快適な生活をおくるためには、@日常使うものに金を使い、A基本に忠実で、B見栄をはらずに、Cこまめであること、が重要である。

[解釈] かつてコンピューター共通言語運動(名付けて「トロン」という)を提唱。雌伏10年、今また再び脚光を浴びている坂村氏の、電脳生活法。
 @は、茶碗や寝具など日常使うものを贅沢に、ということ。Aは、空気、水、そして食べ物といった基本的なものを大切に、ということ。Bは、自分に合わないことは無理してやるな、人の目を気にすればそれは不快、という教えである。
 そしてCは、手を抜いてもなお「こまめ」であり得るように、科学技術を活用せよ、ということ。そこから「(不得手な)プログラミングは直ちにやめよ」、「ワープロは入力速度で選べ」といった実際的なアドバイスが生まれる。その根底に有るのは、有機物(即ち動物や植物)のみならず、無機物(即ちコンピューター)も大切にせよという考え。さすれば、コンピューター犯罪も減少するし,テクノ・ストレスも解消する、という次第である。

[注] コンピューター関連の法則としては、他にドイツの学者が提唱した「コンピューター影の法則」というのが有効。以下、その代表的な法則を二つほど。

  • アラーの神効果:コンピューターの使用範囲が広がるにつれ、責任の所在があいまいになり責任をとらなくなる。
  • 秘密効果:コンピューターに依存している人間は、提供される情報を秘密裏に、そして絶対的なものとして受け取る。これを称して「カフカ・シンドローム」と呼ぶとか。不条理、なのである。

(癒しの医師・高柳氏)

患者の法則 (発見者:高柳和江)

賢い患者になるためには、@‘痛み・病気・死への恐怖’の正体を見極めること、A‘信頼できる病院・医者・医療情報’を探し出すこと、が肝要である。

[解釈] 高柳氏は、クウェートで10年間児童医療に尽くして最優秀医師に選ばれ、帰国後は‘高齢者の尊厳ある生き方’運動の先頭に立つ気鋭の女性医師。その「死に方のコツ」の論旨は明快で、多くの悩める患者達の福音となっている。

 @‘痛みへの恐怖’を克服するには、それが感覚点への刺激(例えば「癌」は内臓をツネラレた痛みである)であることを理解し、精神的緊張が痛みを倍加させること、を知るべきである。その意味で「腹式呼吸」は、気持ちをリラックスさせると共に、新鮮な空気を細胞に送る、という二重の鎮痛作用がある、とされる。さらに病人を独りで苦しませず、マッサージや耳への囁きによって、孤独から解放することも有効な介護方法となる、と言う。
 そして‘病気への恐怖’を和らげるには、病気により残り時間が少なくなった、と嘆かず、健康な人も何れは死ぬ(言わば、病気は老化がいっぺんに来たに過ぎない)と考えて、心を落ち着かせよ、と説く。
 また‘死への恐怖’は、形あるものは全て滅するわけで、みんな後からやって来る、と思えば「死ぬときは独り」と悲しむことも無くなる、と教える。そして、死ぬ瞬間はあまり苦しくないらしい、と勇気付けてもくれるのである。

 以上「病人」という己を知った後は、お世話になるA‘医者・病院’を知る必要が有る。先ず医者は「死は医療の敗北」と思うことから患者を簡単には死なせたくない、と考えがちであること、また保険点数制度から2週間以上の入院は病院にとって儲からないこと、も知っておきたい。こうしたことからも、色々な医療機関・医師を比較考量する「セカンドオピニオン」の大切さが解るであろう。
 さらにいざ手術となった時は、回復度合い、マイナス面(失う機能、仕事への影響)、及び術後のQOL(Quality of Life)についてよく確認すべき、というアドバイスもある。
 また‘医療情報’については、「家庭医学大全」といった保健本は説明が悲観的になりがちであることから、反って医学専門書や体験記の方が信頼できる、とも指摘する。
 何れにせよ、信頼できる医者・病院に出会い、身体のことはその専門家に任せ切る、という姿勢で臨むことが、快癒のための大原則なのである。


(古典的レッスン書)

奇跡のスウィングの法則 (発見者:F&T.シューメイカー)

“スウィングを信じて、レット・イット・ゴー”

[解釈] 著者はさほど有名でないアメリカのレッスン・プロ。しかし、その指導法は、世界各国にスクールを開設するほどの人気であるそうな。
 その秘密は、スウィングに悩むアマチュア・ゴルファーの虚栄心をくすぐる次のような言葉に隠されている――「理想のスウィングとは、自らのスウィングを信じて、解き放った時に産まれる。何故なら、人は各々に理想のスウィングを持っており、それは各自独特のものだから」。そして、ラウンド中ににわかレッスン・プロとなるパートナーを「教室ではデキが悪いとされていたアインシュタインに数学を教えるようなもの」と断じてくれるのである。評者も、まさか自分がゴルフのアインシュタインだとは知らず、随分遠回りをしてきたなァ、などと思ったものである。

 この他参考になりそうなレッスンをいくつか――。

  • 他人のスウィングの結果など、しばらくすれば誰ひとり話題にしなくなる。従って大切なのは「自分は本当は何を望んでいるのか」ということであり、「結果など気にしないで打ちたい」ならそうすればよい。
  • 第一打の恐怖感は、デートの前の興奮と同じ。重要なこと(例えば、恋の成就)が起こる前触れと思え。
  • 練習場ではKeep It Simple に、自らのスウィングを認識し、その盲点を明らかにせよ。「現実に直面して、二秒間過ごすことができる能力(コンセントレーション)」の発揮が肝要である。
  • ミスショットは、また起こると考えるから動揺する。後から見たらあれ一回だった、となるかもしれない(と思え)。
  • 自然なタイミングは、バックスウィング[26]、ダウンスウィング[13]、フォロースルー[12]の割合。これ即ち、著者が提唱する「クラブ投げスウィング」のタイミングである。バックスウィングの方がユックリ、というのがミソ(なんでしょうな?何せ、自信がない)。

逆転の法則 (発見者:川北義則)

意志と想像が争えば勝つのは常に想像である。

[解釈] 人は恐れることを避けようとすればするほどそれに近づいていく、 という悲しい性癖が有る。これを発見したのはエミール・クーエという心理学者。即ち、想像は意志を屈服させ(何と、 想像の強さは意志の二乗に比例するそうな)物事は恐れた方へと転がっていく。例えば‘あがるまい’と思えば思うほど、 その意志よりも、あがっている自分を想像して、反って悪い結果を招くのである。これを称して「努力逆転の法則」と言う。その対処法は、‘あがるまい’という意志を捨て‘あがったけれどうまくいった自分’を想像をしてしまうこと。何よりも、良き想像力を羽ばたかせよ、という教えである。

(PHP文庫版表紙)
[注] 川北氏は、新聞記者出身の評論家。その著書『人生逆転の法則』には、さらに納得の法則が幾つか。就中なかんずく、蒙をひらかれたのは次の一節。

  • 怠け者は、実は挫折した完全主義者である。
 即ち、完全を求め過ぎたが故に常に暗礁に乗り上げ、その繰り返しから何をやってもうまく行かず、果ては人生に消極的な怠け者になる、という次第。この逆の‘不完全主義者’の代表は、と言えば、かの武田信玄。彼は、「戦いいに勝つのは五分をもって上とし、七分を中とし、十分を下とする」という勝負哲学(そのココロは、十分では驕りを生ずる、の意)を持ち、16歳の初陣から38年間、ただの一度も負けなかったと言う。
 そしてこの‘不完全主義’のバリエーションとして、
  • 人生には幾つ目的が有っても良い。
  • ビジネス社会では、アッと驚く大口の取引をしてくるビジネスマンよりも、八分の力の入れようで平均点以上をきちんとこなすビジネ スマンの方が頼りにされる。
  • 「福は禍なきより大なるはなし」(これは、筍子の言葉)
 など、実用的な法則も挙げられている。また、近年ブームの楽観主義に準拠した諸法則も採り上げられ、
  • 自分の脳細胞の凄さを自覚せよ。
  • 欠点を直すよりは長所を伸ばせ。→運をつかむには、「これなら誰にも負けない」というものを身につけよ。
  • いかなるピンチもその人相応である。→「危険が迫ったとき、それから逃げようとすると危険が二倍になる。だが勇気をもって立ち向かえば危険は半分になる。」(チャーチル)
 など、積極的な生きざまが称揚されている。さらに、人生のヒントとなる金言として、
  • 「ホメ言葉は遠い他人から発せられるほど効き目がある。」(アロンソンの不貞の法則)
  • やる気が起きないときは、とにかく行動せよ(機械になれ)。
  • 自分の能力を存分に発揮したいと思うなら、自分の欲求の正直になることが大切である(品性は、俗な欲求に有らず、欲求を満たすための手段に有る)。
  • 敵と味方を間違えるな。仲間や家庭を大切にせよ。
 など、様々な場面で使えそうなフレーズもある。

恐怖の法則 (発見者:中沢新一)

妖怪に出会ったときの総毛立つ感覚は、釣りの感覚に近い。

[解釈] 宗教学者・中沢氏の、杉浦日向子氏との「怪談」についての対話での発言。 へら鮒釣りで‘ずーっと糸を垂れてると手先にビクッとくる’感じ、即ち理解不能の生命(ここでは、へら鮒)と細い糸でつながってしまったという総毛立つ感覚が、恐怖感なのだ、と喝破している。相手の杉浦が言う「生きていたときには分かる人でも、死んでしまった後は、全然ちがう人格というか幽格に(笑)なる」という感じも納得。もはや理解不能となった肉親と出会う、というのは確かにコワイ。
 
後掲・坂東眞砂子のホラー『蛇鏡』で最も恐かったシーン――鏡に映った死んだ姉の目が、妹を探して左右に「ぎろぎろ」と動くところ ――も、この、異界の肉親とピッとつながったという感覚故に、思わず総毛立つのである。

[注] この対話が載った「ユリイカ」誌でのアンケート「あなたにとって恐怖とは?」の回答も興味深い。

SF作家・梶尾真治 「理不尽な形で、あるいは超自然的な形で、日常的生活、行動、常識が覆されること」
ホラー作家・貴志祐介 「自分が、自分の望まない形に変えられてしまうこと」
ホラー作家・小池真理子 「正当な判断をしたはずなのに、その判断が何の役にも立たなくなること」
SF作家・山田正紀 「結局は自分の“死”につながること」

 かくて怪談は、人間の根源的な情動の表現として、語り継がれて行くこととなる。即ち、文豪・佐藤春夫の次の一句―――「文学の極意は怪談である」ということ。

(「幻想文学の手帳」‘恐怖特集’88.3.より)


(バコール自伝)

クモの巣構造の法則 (発見者:M.ガンサー)

クモが昆虫を捕らえるために糸を張りめぐらす如く、友人との付き合いを広げる労苦を厭わねば、幸運が舞い込んでくる。

[解釈] 20年以上にわたって1000人もの人々にインタビューした結果、「運」の秘密を発見したと豪語する著者が、自信を持ってお勧めする法則。
 K.ダグラス(今や、息子M.ダグラスの方が有名になった、顎の尖ったハリウッド役者)と、C.ウィリアムズ(こちらは無名の人)という、スラム街 出身の2人の男の人生模様が例に引かれる。前者が、生来愛嬌が有り女優ローレン・バコールと知り合ってその紹介でスターダムにのし上がること が出来たのに対し、一方、後者は人付き合いが悪く、ために未だにスラム街で酒浸りという有り様だそうな。 すなわち男もまた愛嬌、という法則 である。


クラシック・コレクション

(このコーナーは「人生法則」と直接関係はありませんが、編者好みのクラシック作曲家を羅列してみました。癒し系音楽が多いので、当ホームページを読むのに疲れた方にお薦めします。併せて、偉大なる作曲家達の、美しい旋律の陰に隠れた意外な人生にもご注目を。)

Bach,Johan Sebastian(バッハ、J.セバスチャン)1685-1750ドイツ

 音楽、子供(20人!)で共に多産の人。イギリスの巡回ニセ医者のため、晩年失明。ヘンデルも同じ被害にあったとされる。卒中のため死去、享年 65才。

  • カンタータ第147番/第80番:ジョシュワ・リフキン指揮
    プロテスタント信者バッハの代表的カンタータ2曲。147番は「心と口と行いと生き方もて」、80番は「我らが神は堅き砦」と題される。特に後者のカンタークはルター自身の作とされ、賛美歌267番として親しまれている。オリジナル楽器を使用、また合唱の各パートを独りで歌わせるなど、音楽学者リフキンの面目躍如たる演奏である。(推薦:出谷啓)
  • マタイ受難曲:カール・リヒター指揮・ミュンヘン・バッハ管弦楽団
    「西洋音楽の全地平線を貫いて聳えたつ大伽藍」(吉田秀和)、「クラシツク音楽ベストワンの最有力候補の一つ」(宇野功芳)といった評言を待つまでもない、クラシックの最高峯。演奏も、これまた万人の推す、リヒター&ミュンヘン・バツハの黄金コンビが超定盤と言える。加えて「大戦前夜の聴衆のすすり泣きが聞こえる」と評されたメンゲルベルク盤の悲壮感も捨て難い。
  • 無伴奏チェロ組曲・第1番ト長調・第2番ニ短調:ジャクリーヌ・デュ・プレ
    「チェロの聖書」と言われる難曲。200年近く埋もれていたこの名曲を復活させたのが、かのカザルスである。演奏は、薄幸の天才女流チェリスト、デュプレ17才時の録音。(関係無いけど、かつての夫バレンボイムと並んだ写真では、彼女の方が頭ひとつ大きく、チェロとは体力、を実感した。)

Brahms,Johanees(ブラームス、ヨハネス)1833-1897 ドイツ

 かつてF.サガンは「ブラームスはお好き?」と尋ねたが、以前であれば「それほどでも」と答えたかもしれない(音楽評論家でも宇野功邦あたりは「ネクラ!」と断じている)。しかし最近は、悠長なテンポ、シンフォニックな分厚さ等、そのどれもが好ましい。愛するクララ・シューマンとついに結婚せず、晩年は、ウィーンの偏屈者として、行きつけのレストランで黙々と食事をしては自分の下宿に独り帰った、と言う。その、人生の疲労と孤独を歌う旋律が、後世の我々の孤独を癒してくれる。

  • 交響曲1〜4番:B.ハイティンク指揮・ロイヤル・コンセルトヘボウ交響楽団
    「北国ドイツの春のよう」と讃えられた第1番が人気。演奏は、メリハリの効いたハイティンクの全集ものがお買い得。他に、G.ヴァンントのいかにもドイツらしい燻し銀のごとき演奏も揃えておきたい。
  • クラリネット・ソナタOP.120:D.シフリン
    モーツァルトのクラリネット協奏曲(K.622)でも豊かな音色を響かせた、シフリンの特注クラリネットが、ここでも好調。たゆたうごとき旋律が、心に染み込む。
  • ピアノ・ソナタOP117,118,119:V.アファナシェフ
    スキゾ・キッズ(といっても、もう中年か)浅田彰が「この一枚のディスクのために、他のブラームスのディスクの一切を投げうつだろう」と言わしめた、奇才アファナシェフの演奏が、面白い。ただ、面白すぎると感じる時もあり、そんな時は鍵盤の帝王・バックハウスの円熟枯淡の演奏に戻りたい。

Gustav Mahler(マーラー、グスタフ)1860-1911 オーストリア

世紀末風潮の代弁者と言われるユダヤ系作曲家。ウィーンという文化爛熟の都会にあって、19世紀の沈み行く太陽を看取った時代の子、である。その交響曲『巨人』『復活』などが、雁行する哲学者・ニーチェを意識して書かれたというのも、あながち無理な連想では無かろう。故に、その全音楽の主調低音は‘死’となり、歌曲『亡き子をしのぶ歌』が、3年後の娘の死を予言していた、という伝説を産むことにもなる (当時、マーラーは結婚もしていなかったので、この説は些か無理)。 交響曲第4番のフルートの旋律、「大地の歌」の漢詩テーマなど、中国的エキゾティズムが横溢おういつしているのも、我々東洋人には馴染みやすい。

  • 交響曲第4番ト長調:R.バーンスタイン指揮・ ニューヨーク・フィル
    同じユダヤ系の指揮者・バーンスタインの「天国の夕暮れ」の如き名演が推奨盤。第1楽章と終楽章に現れる印象的な鈴の音は、「子供による天国の世界」を表現している、と言われる。ただ編者は、第2楽章の‘友ハイン(即ち、死に神)’の演奏する甘美な旋律に、より思い入れが深い。ここでは、死もまた陶酔、となる。
  • 交響曲「大地の歌」:B.ワルター指揮・ フェリアー独唱・ ウィーン・フィル
    この曲の初演者・ワルターが晩年になってマーラーとゆかりの深いウィーン・フィルを指揮した記念すべき名演。またアルト・フェリアーの、文字通り白鳥の歌(翌年41歳で早逝)である絶唱も忘れ難い。
  • 交響曲第9番ニ長調:B.ハイティンク指揮・ ロイヤル・コンセルトヘボウ交響楽団
    第9番を書くと死ぬ、と言うジンクスから、マーラー自ら(9番を飛ばして)10番と名付けた交響曲。しかし、彼の望みも空しく、この‘実質9番'が最後の作品となった。もがき苦しむ曲調の中に、僅かに天上の調べが聞こえたように思うのは、気のせいだろうか。ユダヤ系のコッテリ型演奏が少しもたれてきたことから、ここはハイティンク指揮の正統的かつ堅牢な演奏を採りたい。

Robert Shumann(シューマン、ロベルト)1810-1856 ドイツ

 愛妻・クララ・シューマンとの熱愛で有名。優雅で荘重な物腰と当代稀に見る知性により、ドイツ・ロマン主義運動の推進者となった。晩年、強度の鬱病と分裂症のためライン河へ投身自殺を図り、一命はとりとめたものの精神病院に入院。病床では、ブラームスから贈られた大きな地図からABC順に都市や国の名前を書き連ねていた、と言う。謙虚で聡明な知性が苦しみの果てに辿り着いたものがこの「大きな地図」であるとすると、人生にとって苦しみと癒しとは何か、といった問題に突き当たる。入院後2年で死去、享年46歳。

  • 森の情景・作品82:マリア・ジョアン・ピリス
    ロマン主義の色濃い後期ピアノ曲。‘森’はドイツロマン主義者にとって、静寂・不安・神秘・憧憬等を象徴する特別の場所、である。演奏は、復活後の活躍がめざましいM.J.ピリスの深みのあるソロが聴きもの。
  • チェロ協奏曲OP129:イッツァーリス演奏・エッシェンバッハ指揮
    イッツァーリスのチェロが情緒纏綿てんめんと響くのを聴きながら、詩人ヴェルレーヌがシューマンの音楽について言った言葉(「あの甘美さにつかまるともう逃げ出せない」)を思い出す。また「シューマンの音楽を必要とするときが、生涯に一度は必ずやってくる」(中堂高志)という予言の重みに思いを致すのも良いだろう。

( 昭和33.3.3.- )

コダワリ放下の法則 (発見者:坂東眞砂子)

他人(および自分)へのコダワリを捨てることが、自立への道である。

[解釈] ジャパネスク・ホラーの新女王・坂東眞砂子の、人間関係論の要諦。その対人関係についての坂東の覚悟は、中期の傑作『桃色浄土』に登場する裏ヒロイン・さね婆さんの述懐で明らかにされる。

 さねは、いつも誰かにしがみついてばかりいた。最初は夫。夫が死んだら、息子に。息子が死んでからは、珊瑚(莫大な財宝の象徴)や英俊(さねの情人)にすら、しがみつこうとした。そのまま死んでいたら、きっと生きていた自分にしがみついただろう。

 そして‘もう誰かにしがみつくのはこりごり’と思い定めた時さね(と作者)は、空の青さに似た安心立命の境地、に至るのである。後掲「80対20の法則」に見られる、‘20%の自己放棄’に一脈通ずる潔さ、と言って良いだろう。(またこの境地が、仏教の世界でお馴染みと見れば、後掲「なん・まん・だぶの法則」も参考となろう。)

[注] ここに至るまでの作者の心理的足跡を辿れば――

  1. 自らへの献身的愛情へのコダワリ:『死国』の文也は死んだ美少女沙代里の視線を何よりも愛する。 それは彼の孤独感を癒してくれるから。
  2. 異界の絶対神への盲信:『蛇鏡』の綾・玲の姉妹は、邪教の獣神に自らを捧げようとする。人は裏切るが、蛇神は永遠に変わらないから。
  3. 浄土到達への渇仰:『 桃色浄土』の舞台・月見が浦の人々の夢想。彼らは補陀落渡海伝説の目的地・パラディーソへのコダワリのため、破戒層・英俊を養い、ために恐るべき大暴風雨に襲われる

 そして、他人の視線、異界の絶対者への依存をやめ、情人の確執や肉親への盲愛を乗り越え、さらには自分へのコダワリも放下することにより(月見が浦に訪れた、嵐の後の青空の如き)心の平安を得ることができる、と作者は言う。まさにモラリスト(だと思う)坂東眞砂子の、面目躍如たる信念


(昭和33.年 神奈川生)

岸本葉子の「希望と受容」の法則 (発見者:岸本葉子)

がん治療にあたっては)あきらめずに完治を目指すこと(「希望」)と、治らないのを前提に生き方を再構築すること(「受容」)、この二つのバランスを取ることを心がけたい。

[解釈] 岸本葉子女史は、旅行記、身辺雑記を中心にフツーの女性の考え方を綴る人気のエッセイスト。その清楚な風貌と、意外に男性的な考え方(阿川佐和子氏評)が、矛盾なくひとつの人間の中に同居しているところが魅力的な才媛である。
そんな彼女が、40歳で「虫垂がん」を発症。その闘病を綴った勇気あるレポートがんから始まる(晶文社・1600円)は、同じ苦しみを背負う患者たちに、さまざまな啓示を与えてくれる。
法則として掲げたのは、
岸本氏が、がん手術後に同病者の集い(「サポート・グループ」)に出席するに際に、心に秘めた覚悟。「がんイコール『死病』ではない。がん細胞を消滅させることはできなくても、増殖を抑えたり、症状を緩和したりしながら、内に抱えたまま生きられるのだ」と、彼女は考える。すなわち、がんは慢性疾患」ということ。そう捉えることにより、他の病気と同じように「共生」しよう、との勇気が生まれるのである。

[注] この他、本書で印象に残った言葉を以下に揚げる。
病気というのは(岸本女史のごとく節制しても)なるときにはなる。要するに、病気になるのに、生き方は関係ない

がんは個別性が高い。闘病姿勢はすなわち生き方、みたいなところがある
『ふつう』の行動をしていれば、心もおのずとそれにつれて、健康人としての、自然な律動を刻みはじめる。すなわち『気にしない』という方法で乗り越える選択もある
心の危機を乗り越える『バイブル』は自分で探すしかない

そして、本書末尾近くに引用されているV.E.フランクル(ドイツの心理学者)の例え話も、心に残る。
無期懲役の刑を受けた者が、囚人船で移送される際、火事になった船の中から10人もの人命を救助することもある――つまり、無意味な人生などない、という教え。闘病患者も、鬱になって絶望せず、その苦しみの中に「意味」を見出すことができれば、病と闘える、という希望に満ちたメッセージである。


(1963-)

「心のブレーキの外し方」の法則 (発見者:石井裕之)

「心のブレーキを外す」には、“スタートをできるだけ丁寧にゆっくりやること”を心がける。

[解釈] 石井氏は、『ビジネス・コーリドリーディング』『心のブレーキの外し方』などのベストセラーで有名なカリスマ(!)・セラピスト。「奇跡体験『アンビリバボー 』」、「ビーバップ・ハイヒール」などTV出演も多数で、その風貌は、セラピストというより若手マジシャンといった雰囲気。うるさ型のハイ・ヒール二人組みが、その“マジシャン”の心理的なマジックにひたすら驚いていたのが印象的だった(相手と同じ動作をして親近感を持たせる「鏡像のテクニック」、質問への回答傾向から人間をYES型とNO型に分類する「YとN理論」など、視聴者も納得の論理展開が鮮やか。なお、この「鏡像のテクニック」は、後掲「『心理操作』の法則」「類似性効果」にも通ずる)。
(ハイヒールのお姉さま方)

編者も思わず惹きこまれ、最新著作「人生を変える!『心のブレーキ』の外し方」を早速購入。その考え方の基になるのが、独特の「潜在意識」理論であることを発見した。
 冒頭の法則がその典型例。目標を達成するのに、最初から遠大な計画を掲げず小さな一歩から始めよ、とはよく言われることだが、石井氏はこれこそ潜在意識理論に基づく
合理的方法だ、という。すなわち、「潜在意識は、現状を維持しようとするもの」だから、その変革には膨大なエネルギーを要し、ために大きな目標をあげると失敗しがち。「潜在意識」は母親のようなもので、あなたを大切に思うあまり現状を変えようとする心に「ブレーキ」をかけてしまう。従って、その「心のブレーキを外す」には簡単な目標・小さな一歩から始めて、潜在意識にその変化に慣れさせることが肝要だとする。

(最新著作)

[注] 本書には上記のほか、「潜在意識」にまつわる興味深い法則がいくつか。
「感情は、放っておいたら消える」…一念発起しても三日坊主に終わる理由はここにある。不安定な感情を定着させるには、その(受動的な)「感情」を(能動的な)「行動」に変えればよい。感謝の気持ちを“形(プレゼントなど)にすること”も、その意味で効果的なのである(なおこの「行動への変換」潜在意識との関係はもうひとつハッキリしないが、著者は「重要な潜在意識的根拠がある」と言ってイマス)。
・「潜在意識の中には、矛盾するたくさんの“あなた”が手を結び合っているので、全体がバランスよく成長する必要がある」…“ダイエットしたいあなた”ばかり優先すると、“食べたいあなた”が反抗して失敗する、ということ。たくさんの“あなた”をバランスよく動かさなければ、潜在意識は期待する方向に向かない。これは社会全体にも応用でき、自分のことばかり考えず“人生全体”に心を配ることが、社会生活を円滑に過ごす秘訣である,。下世話に言えば、「情けは他人のためならず」ということ。
・「潜在意識は、答えが見つかるまでいつまでも考え続ける」…従って、迷ったときには「イエス」と言うことが大切。そうすれば、仮にその結果が「ノー」であっても一応の決着が見られ、潜在意識は休むことができる。
・「潜在意識には“今、この瞬間”しかない。そして、潜在意識には“ないもの”が理解できない」…だから、どんな状況にあっても“今、できること”だけを考え、それを実行すること。これが潜在意識の命ずる道なのである。
 なお、直前の二つの法則を諺で言えば、「下手な考え、休むに似たり」と言い換えられる。つまり石井氏の法則のミソは、昔から言い古された“人生の知恵”を現代的な「潜在意識」という概念を使って生き返らせた、と言うこともできようか(まあ、それで自らを納得させられれば、それで良いわけですが…)。
・「潜在意識を利用して、夢や目標を実現するためには、『自分はできるんだ!』という根拠の無い自信“ハッタリ”があればいい」…これぞ、石井氏の言う“最大のヒミツ”。「潜在意識は現状を維持する」から、物事を始めるときには“成功も失敗も無い状態”を維持しようとする。これでは成功は覚束ないので、「成功するぞ!」と言い続けて、潜在意識に徐々にそう思い込ませねばならない。表現は悪いが、“ハッタリ”を唱え続ける(例えば、世界の本田宗一郎氏も、最初は町工場のミカン箱の上で「世界のホンダになるゾ!」と大言壮語していたそうな)ことにより、ハッタリが本物になっていくわけ。理想の自分を“演じる”ことにより、なりたい自分に近づいていくのである。(この考えは、後掲「マーフィーの法則」の裏返しと言っても良い。「信ずる者は救われる」のである)


翻訳書表紙

「『困った人たち』とのつきあい方」の法則 (発見者:R.M.ブラムソン)

「攻撃的な困った人」には、「慎重に相手の注意を引き(名前を呼ぶ等)、正面衝突を避けつつ(「それはそうですが…」といった表現らの意見を迫力をもって述べること、が重要である

[解釈] 著者ブラムソン(1998年没)は、HP、IBM、バンク・オブ・アメリカ等、多くの大企業の顧問を務めたアメリカの著名コンサルタント。その著書「『困ったひとたち』とのつきあい方」は、組織の中の“困った人たち”への対処法を具体的に説明して、発行部数300万部のベストセラーとなった、という。つまりそれだけ、会社や団体、さらには家庭でも、そのテの“困った人たち”がいるってことなんでしょうナ。
 上に掲げたのは、その“困った人”のうち一番厄介と思われる
「重戦車(タンク)型の困った人」への対処法である。敵意と攻撃性で相手の気力を消耗させる「重戦車タイプ」には、いかなる対処法があるのだろうか?
 著者はまず、「重戦車タイプ」を、“弱い態度から脱却して確信に満ちた人物
になった経験の持ち主と喝破する。従って重戦車たちは、弱い態度から脱却しない相手を軽視し、そういう人たちを見くびることによって優越感を保ちつつ、自分から逃げ出す者の価値をさらに“切り下げる”のである。
 従ってまず重要なのは、彼に対抗して“自ら立ち上がる”ことである。そうしなければ、“気にかけ るに値しない人”として「その他大勢」の中に埋没させられてしまうことになる。この場合、攻撃的な相手への有効な対抗手段として 著者が推奨するのが、「相手の名をはっきり呼びかけること」。 こうして相手の注意を引いたら、正面衝突をせずに(例えば 「あなたの言うことは解りますが…」等と言う訳だが、これは後掲「『心理操作』の法則」の「会話中断のテクニック」にも通ずる)、自らの意見を(ここは、丁寧な態度をとろうとせず迫力を持って言い切ることが肝要である。
 ここで、何故正面衝突を避けるべきか、といえば、「重戦車型」は負け知らずの実績(!)があるので、 相手よりも長く戦い続けられるからである。つまり、退却してはならないが、 正面から戦えば、相手の執拗な攻撃を浴び続けることになる、ということ。逆に対抗されただけであれば、敗北してはいないので、彼はその論争相手を「強い人物」として受け入れようとするであろう。昔からの言い慣わし―「ガキ大将に敢然と立ち向かえば、彼はあなたの友となる」―は、まさにそのあたりの機微を言い表しているのである。

[注] この本には、 他の“困った人たち”として、「不平家型」、「貝型」、「過剰同調型」、「否定型」、「自信過剰型」、 「優柔不断型」といったタイプへの興味深い対処法も満載。そして、それら全ての“困った人たち”への 共通の心構えとして著者が掲げるのが、次の2点である。
@「相手がこんなふうでなければなどと望まない」
 …他人も基本的に自分と同じ、というのはマチガイ。従って、困った人が(自分の期待するように) 変わらないことにも失望しないようにせよ、ということ。
A(上に述べたような全ての努力が実らない場合は)「できるだけ距離を置く」
 …困った人から“離れること”は、最も簡単で代償も少なく、双方にとってもいいことである。 それは、「物理的距離」でもよく、また「組織上の距離」でもよい。どんな人であれ、 困った人たちといっしょに仕事をしたり、ましてや一緒に住んだりしなければならない、 という道義的責任は断じてない、のである(と、ここらあたりの強さが、さすが個人主義の国アメリカ)。


(大ベストセラー)

「キッパリ!」の法則 (発見者:上大岡トメ)

「一日10回『ありがとう』と言えば、心が温まる

[解釈] 上大岡トメ さんは、山口県在住の主婦兼イラストレーター。上記法則は、そのベストセラー『キッパリ!』という自己啓発本からの一節である。 この本には全部で60 「たった5分間で自分を変える方法」があげられているが、そのうち著者の姿勢をよく表しているのが、この言葉だと思う。すなわち、 いろいろな人、ものに「ありがとう」 と言うことによって「心が温まる」 ということ。前掲「『心のブレーキの外し方』の法則」の“ハッタリが本物になっていく”に相通ずる(ただしこちらは「ハッタリ」というより「感謝の気持」だが)信念である。
 
[注] もうひとつ、チャレンジしなければ、と思ったのが、次の方法。
「食べる時に、30回かむ」
その効用は―― “よくかむと、まずあごが発達し、歯の健康維持、味覚も発達する。コトバの発達を助け、 脳の働きを良くする”などなど…。そして決定的なのは“肥満防止”にも役立つのでありマス!


(エッセイ「よせやい」)

「芸術言語論」の法則 (発見者:吉本隆明)

言語には、「自己表出」と「指示表出」の2つの機能があり、「芸術言語」とは“沈黙”に向かう「自己表出」を意味する。

[解釈] 齢(よわい)84歳の 吉本隆明氏が、「どうしても、 これまでの仕事をひとつにつなぐ話をしたい」として、最近の対談相手糸井重里氏に協力を依頼し、講演会を開催した(2008年7月19日。 後にNHKでその模様を放映)。そのときの講演の結論というべきものが、上に掲げた一節である。我が国思想界の巨人が、戦後60年紡いできた思考の到達点と見れば、感慨深いものがある。
といっても、その深い思索を今直ぐに理解できるはずもない。ここは、氏の独特の表現(例えば「自己表出」等) についての注釈を書き留め、さらにその表現を使った文学論の一部を添えて、後の思索の縁(よすが)としたい。


・「自己表出」
:相手を必要としない自己 への語りかけ。従って、この言語には“沈黙”
がふさわしい (氏は講演冒頭、「言語の幹と根の機能は沈黙です」 と言って我々を驚かせマス)。
「指示表出」:言語のコミュニケーション機能。 普通は、これが言語の基本的役割と考えられるが、氏にとっては「枝葉」に過ぎない。
「芸術言語」上記「自己表出」に関わる芸術のための言語。ためにこの「言語」は“沈黙”のうちに「宿命を目指す」とされる。

氏は、以上の定義を踏まえて文学を論じ、
森鴎外 「半日」での作者の嫁姑間の煩悶や、夏目漱石 「三四郎」での“先生”の初恋の人への夢想等は、まさにこの「芸術言語」 の領域なのだと指摘する。そしてこうした「言語」=「文学」は、(太宰治 が自らの文学を評したように)“役に立たない”ものであり、 だからこそ“開かれた普遍性”を有する、と説く。
(横光利一1898-1947)

さらにこうした文学の特質について、 我が国で初めて自覚的に取り組んだのが横光利一(!)であり、その功績はかのドストエフスキーに匹敵する、とさえ言うのである。この指摘は正直意外だったが、横光が、大衆文学と純文学の統合を目指したことを評価するなら、納得できる視点であろう。
(マルクス1818−1883)


[注]
 
敗戦で、自らの存在意義を否定された吉本青年(氏は「主戦論者だった」と告白)は、直後の5年間、世界認識を再構築するため「古典経済学」(!)に没頭する。それは、A.スミスからリカード等を経て、最後にはマルクスに至る徹底的なものだった、という。そこで学んだ「機能主義 Functionalism」は後の氏の社会思想の基礎となったが、今回の講演では文学に限ってその考え方は否定される。すなわち、マルクス「資本論」で(無意識に?)書き留めた“労働価値をつければ作品は良くなるのでは”という一節を、「芸術言語」の観点から採りえない、と断ずるのである(なお返す刀で、桑原武夫氏の「第二芸術論」―芭蕉の短い俳句はバルザックの編に比し「第二芸術」とする説―を「芸術言語」に長短の差はない、と切って捨てている〉。


ピカソ晩年のエッチング

「芸術論」の法則 (発見者:小林秀雄、吉野秀雄他)

立派な芸術は必ず何らかの形式で素晴らしい肉感性を持っている。

[解釈] 一口に「芸術論」といっても、それだけで斯界の権威(例えば、仏哲学界の泰斗アラン等)が一冊の本をものすほどに大きなテーマである。それも、“純粋芸術“や“実相観入“といった実人生と芸術の関係、といったところに踏み込んでいくと、収拾がつかなくなるのは必至。
そこで本項は、芸術が究極的に何を描こうとしているのか、という問いに限定して、この人類のみが営む“非生産的な行為“の特長を炙り出そうと思う。
そこでまず掲げたいのが、冒頭の法則。かの
小林秀雄が、弱冠25歳で思い至った「芸術の特長」についてのアフォリズムである(「測鉛T」)。簡単に言うと、優れた芸術はどこかセクシュアルである、ということ。この一見意外な発見について、いくつかの傍証を掲げる。
絵画界ではピカソ。彼が晩年のエッチングで、専らギリシャ神話に題材を借りて“男女の性愛”を描いたのは有名(口絵参照)。最初見た時は天才ピカソも老いたか、と思ったが、徐々にこれが優れた芸術家の辿る必然だったのだ、と思えて来た。
映画界では
タルコフスキー「惑星ソラリス」での亡き妻ハリーことソラリスの海の化身の蠕動や「サクリファイス」での元俳優アレクサンデルと召使マリアが抱き合ったまま浮遊するシーン等は、彼本来の静謐な画面に似合わぬショッキングなものだった。
文学界では、
山口青邨の次の一句。
吾子はをみな 柚子湯の柚子を 胸に抱き
まだ膨らまぬ胸に柚子を抱く娘に、無限の愛しさと共に“女性“を感ずる父―そこには、仄かなエロスの香りさえ漂う。
そしてこのエロスが、死の影に色濃く縁どられていることにもご注目を。その事実に思い至ったのは、歌人
吉野秀雄が、死にゆく愛妻・はつ子夫人の病床で愛を交わす、という凄絶な歌を詠んでいるのを知ったから。その「厳粛なる男女交合の歌」(山本健吉評)の中で、最も印象的な一首を次に掲げる。
真命(まいのち)の 極みに堪へて ししむらを 敢えてゆだねし わぎも子あはれ
教え子の山口瞳が「先生の生活や生き方そのものが『真命の極み』であったのだ」(『小説吉野秀雄先生』)と嘆息する絶唱である。
人は(
ドーキンス「利己的遺伝子」で明らかにした如く)自らの種を残すために営々と努力を重ねるが、その心の動きが、自ずと作品に現れるということであろうか。優れた芸術はついに、“死と隣り合わせのエロス”を希求するのである。

(「やし酒飲み」)

[注] さらに極論すれば、芸術とは、人が等しく逃れられぬ「死」についての考察、と言うこともできよう。

死があるから、芸術がある」(早逝したSF作家。伊藤計劃)。
神の存在が信じられなくなれば、人間に残されたものは芸術しかない」(F.キアンブール『この世の涯てまで、よろしく』)

こういった言葉を待たずとも、現代文学の傑作群は「死」との関係から、その比類のない力を汲み上げている(『やし酒飲み』解説・菅啓次郎)。文体や題材も様々ながら、チュツオーラの『やし酒飲み』やカフカの『変身』、ルルフォの『ペドロ・パラモ』、 そしてフォークナー『死の床に横たわりて』等、全てが末期のイメージを基に“ストレンジな小宇宙”(同)が紡ぎ出されているのである。


(1954-)

ゴダードの「過去の因縁」の法則 (発見者:R.ゴダード)

事件は、遠い過去の因縁が現在に復讐することによって惹き起こされる。

[解釈] ロバート・ゴダードは、 “稀代の語り部”と称されるケンブリッジ出のミステリ作家。その謎の骨格は、遠い過去の因縁が現在に復讐するという体裁をとる。 こう言うと、だいたい全てのミステリがそうではないか、と叱られそうだが、ゴダードの場合、自らが歴史専攻だったせいか、 英国史上の有名な出来事(例えば、南ア戦争、南海泡沫事件など)を隠し味にするのが特徴である。 因みに、このスキーム(“失われた過去が現在に蘇る”)がゴダード作品の基本的構造である、と喝破したのは、 かの養老猛司(氏は知る人ぞ知るミステリ通デス)。
(「蒼穹の彼方へ」)


[注]
 ゴダード・ミステリーの秀作として世評高いのは、『リオノーラの肖像』(1988年)、『蒼穹のかなたへ』(1990年。個人的にはこれがベスト1)それに処女作 『千尋(ちいろ)の闇』の3作あたりか。
加うるに、オビの文句―“過去から蘇った婚約者は不安なまでに完璧だった”(上巻) そして“暗黒の中で邪悪な絵筆を走らせたのはだれか?”(下巻)―が絶品の『闇に浮かぶ絵』(1989年)もご推薦。英国犯罪史上名高い「ティチボーン訴訟事件」(1854年、太平洋上で遭難した筈の準男爵ロジャー・ティチボーンが、実は生きていたとして名乗り出た事件)を題材に、複雑な血の繋がりが悲劇を生む、というゴダード一流の世界が展開する。なによりも“暗黒の中で邪悪な絵筆を走らせた”人物の造型が見事。ここでゴダード・ミステリの特徴は、“過去が現在に復讐する”というより、もっと直截に“死してなお邪悪な精神が、生者たちを悲劇に追い込む”パターンなのだ、と言い換えることもできよう。
ゴダード作品では、“悪こそが輝く”。